知られざるストーリー

困ったときは、お互い様~フィリピン台風で青年海外協力隊員が被災地支援~

バナナのお礼


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「フィリピン」と聞いて日本人がまず思い浮かべるのは「バナナ」ではないだろうか。実際、日本で消費されるバナナの9割以上がフィリピン産だ。

2011年の東日本大震災では、フィリピンの生産者が救援物資としてバナナを被災地に届けてくれた。日本の人々がフィリピンのバナナを買い続けてきたことで彼らが貧困から立ち上がれた、その恩返しの気持ちからだった。
震災から2年あまり経った2013年8月。JICA二本松による教師海外研修でフィリピンを訪れた一団のなかに、福島県の避難所でフィリピンから届けられたバナナをよく食べたという小学校教員が含まれていた。彼が研修に参加したのも、フィリピンの人たちにお礼を伝えたいとの思いからだった。バナナの産地の一つ、ネグロス東州タンハイ市(ネグロス島)にあるマララグ小学校で青年海外協力隊員の岸本紗矢子さん(小学校教諭・神戸市教育委員会からの現職参加)の活動を視察した際、その教員は涙を流しながら現地の人たちにこう伝えた。
「避難所の生活はつらかった。そんななか、フィリピンからたくさんのバナナが届くと、避難所の雰囲気が一気に明るくなった。フィリピンの方々が応援してくれていると知り、うれしくて元気が出たのです。あのときのことが忘れられません」
彼の感謝の言葉に、マララグ小学校の教員たちは心を打たれ、フィリピン人が貢献できたことに誇りを感じた。
「災害は絆を生む」特別な思いでこの光景を受け止めたのは岸本さんだ。神戸出身の彼女は、小学3年生のときに阪神・淡路大震災を経験。多くの人が被災地支援に取り組み、そこでさまざまな絆が生まれるのを目の当たりにしていたからだ。

Facebookで情報発信


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災害発生から2ヵ月ほど経ったタナウアン町の様子。雨期の影響もあり、依然として家屋の周囲から水が引いていない

フィリピンのタガログ語で「ヨランダ」と名付けられた大きな台風が同国中部を襲ったのは、教師海外研修から3ヵ月後の11月8日。レイテ島を中心に甚大な被害が発生し、死者・行方不明者は8000人に上った。岸本さんの任地であるタンハイ市は被害がわずかな範囲にとどまったが、「バナナのお礼」の一件が頭にあった岸本さんは、「フィリピンと日本の間で支援の交換ができれば」との思いで即座に行動を起こす。被災の状況を伝える日本語の文章を子ども向けの易しいものと大人向けの2バージョン作成し、Facebookで日本の教員仲間に向けて公開したのだ。災害のわずか5日後のことである。公開した文章には、バナナの件も盛り込んだ。

「日本の方々に向け、被災の状況を伝えて義援金を募るメッセージは、日本のNGOなどによってインターネットでたくさん出されていました。しかし、それらはいずれも大人向けの難しい文章でした。そんななか、子どもたちがわかるような文章を発信すれば、日本の先生たちがそれを『総合学習の時間』などで教材として使い、子どもたちに『自分ならどういう手助けができるか』を話し合ってもらえるだろうと考えました」

岸本さんの投稿はまたたく間にシェアが拡大。しばらくすると、「岸本さんがつくった文章を教材として活用したところ、子どもたちからこんな反応があった」「子どもたちがこんな募金活動を行った」といった報告が、日本の教員から50件近く寄せられた。その多くは、面識のない人たちだった。

被災者の心のケア


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タナウアン町で行ったイベントで、子どもたちとともにダンスを行うサマカナのメンバーたち

異文化社会に飛び込む青年海外協力隊員。現地の人の助けがなければ、生活や活動は成り立たない。そのため、これまでも派遣国で大災害が発生した際には、「困ったときは、お互い様」の気持ちから、赴任中の青年海外協力隊員たちが被災地支援に立ち上がってきた。

ヨランダの最大の被災地となったレイテ島では、2006年にも大雨と地震による地滑りの大災害が発生しているが、そのときも派遣中の青年海外協力隊員たちが被災地支援に取り組んだ。人形劇などによる保健啓発などを行う青年海外協力隊員のグループ「サマカナ(タガログ語で『寄っておいで』の意)」による、被災者の心のケアを目的とした避難所の巡回公演である。
サマカナは、フィリピンの青年海外協力隊員たちが代々受け継いでいる活動だ。ヨランダの際にも、被災した子どもたちにアクティビティを提供するサマカナのイベントが実施された。

実施を提案したのは、レイテ島のなかでも特に被害の大きかったタナウアン町の地域保健所で母子保健の活動に取り組んできた青年海外協力隊員(看護師)の堀口利辺佳さん。堀口さんは自分の家も被害を受け、災害発生の数日後には首都マニラに退避。しかし、その後たびたびレイテ島に赴いては、ホテルに滞在しながら、日本の国際緊急援助隊のサポートなど被災地支援に取り組んできた。そんななかで、被災地の教員から「ここの子どもたちには、悲惨な記憶を忘れて楽しめる時間が必要」という話を聞く。そうして堀口さんが、フィリピン各地で活動中の青年海外協力隊員たちに呼びかけたのが、サマカナのイベントを被災地で行うアイデアだ。

実施は2013年12月から2014年3月までの間に3回。各回とも10人前後の青年海外協力隊員が協力し、タナウアン町の小学校や村の公共施設など数ヵ所を回って、歌やダンス、折り紙などを行った。参加した現地の児童や保護者、教員はいずれの会場でも100~300人にのぼった。彼らの多くは、テントや避難所での生活を余儀なくされていた。イベントに参加した子どもからは、「校舎が使えなくなってしまい、こうしてみんなで集まって遊ぶ機会が無かった。だから今日はとても楽しかった。また来てほしい」といった声が聞かれた。

被災地支援に取り組む元ストリートチルドレンたち


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被災した子どもたちと、彼らを支える青少年グループのメンバー。2列目の右から2人目が岸本さん

フィリピンの人々のなかにも、「困ったときは、お互い様」の思いで被災地支援に力を注ぐ人は少なくない。なかでも驚かされるのが、被災した子どもたちを支援する青少年グループの存在だ。

同国では1990年代の後半、当時まだ十代後半だった元ストリートチルドレンの少年が、「手押し車」に教材を載せて町を回り、ストリートチルドレンや幼くして働かされている子どもなど、学校に行けない子どもたちに教育を提供するボランティア活動を開始した。「カリトン・スクール」と名付けられたこの活動は、現在も首都マニラで続けられている。その教師役をボランティアで務めるのは、みずからがそこで学び、高校や大学への進学が叶った二十歳前後の青少年たちだ。
彼らの一部が、ヨランダの後にいち早くレイテ島の被災地に入り、被災した子どもたちへの支援活動を始めた。被災者たちと共にテント暮らしをしながら、被災した子どもたちを集めては、彼らとともにNGOなどからの支援物資を自転車に積んで被災者たちに配って回る。被災した子どもたちは、そうしたボランティア活動に参加することで、地域の大人たちから「ありがとう」と声をかけてもらい、自尊心や元気を得る。

この活動に着目したのは、前述の岸本さんだ。2014年1月、被災孤児を支援したいと考えて被災現場に足を運ぶなかで、この青少年グループと出会う。彼らの志に感銘を受けた岸本さんは、以後、その活動を資金面などでサポートしてくれるような団体の発掘に奔走。そうして3月に、被災地への短期ボランティアツアーを企画・実施していた日本のNPO法人「MAKE THE HEAVEN」に青少年グループへの継続的な支援を約束してもらえたところで、自身の任期が終了。同団体は現在、どのような協働体制をとっていくか、青少年グループと構想を練っている。一方、帰国して教職の現場に復帰した岸本さんは、青少年グループの話を紹介しながら、教え子たちとともに日本でできる支援の方法を考えている。

ヨランダの被災地は、ようやく復興の途についたばかり。青年海外協力隊たちによる被災地支援は、まだしばらくは続きそうだ。

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