
次のチャレンジを求めて、アメフト引退後にJICA海外協力隊へ。
16〜32歳まで、人生の半分をアメリカンフットボールとともに過ごしました。32歳で実業団を引退するにあたり、アメフトと同じくらい夢中になれるものを求めて、JICA海外協力隊に応募しました。
アメフトなら、チームの中で選手に選ばれ、試合で相手を倒さなければいけません。仕事なら自分や自社の利益も考える必要があります。ですが、ボランティアの立場なら、120%相手のために行動することが許されると考えたのです。
浦 輝大さん
2018.08
16〜32歳まで、人生の半分をアメリカンフットボールとともに過ごしました。32歳で実業団を引退するにあたり、アメフトと同じくらい夢中になれるものを求めて、JICA海外協力隊に応募しました。
アメフトなら、チームの中で選手に選ばれ、試合で相手を倒さなければいけません。仕事なら自分や自社の利益も考える必要があります。ですが、ボランティアの立場なら、120%相手のために行動することが許されると考えたのです。
派遣国のバヌアツでは、小学校を巡回して、体育指導を行いました。スポーツという共通言語のおかげで、子どもたちとはすぐに打ち解けましたが、要請にあった「総合体育大会の実施」は実現に至りませんでした。私の意図がうまく伝わらず、現地の指導者たちも実施の意義を見出せずに終わってしまったのです。要請を遂行できなかったことは悔やまれますが、自分が蒔いた種は、5年後、10年後の隊員が摘み取ってくれるのかもしれないと、帰国して10年近く経った今は実感しています。そのような苦い経験を経て「自分が一方的に日本の文化を押し付けてはいけない」と気づいてからは、謙虚に、まずは受け入れてもらえるよう笑顔で相手の懐に飛び込み、少しずつ打ち解けていきました。
現在は、スポーツを通じた国際貢献・交流事業「スポーツ・フォー・トゥモロー・コンソーシアム」(以下、SFT)に在籍し、日本のスポーツコンテンツを海外に展開する仕事をしています。ASEANにおける日本の体育教育専門家による講演や、スポーツ科学・スポーツ医学分野での講演・ワークショップの開催に携わっているのですが、バヌアツで身につけた“謙虚に相手の懐に飛び込む姿勢”のおかげで、円滑に仕事を進められています。
開発途上国相手の仕事では、直前まで予定が見えないことも多々あります。日本側の関係者に不安を抱かせてはいけませんが、JICA海外協力隊の経験から、現地のペースや方法を尊重する大切さも心得ています。双方の文化を理解し、両者の橋渡しをしながら、有意義なイベントになるようサポートしています。
バヌアツでの2年間があったことで、引退直後には想像もしなかった職業へのチャンスが広がりました。スポーツ選手が引退後に進む道として、JICA海外協力隊があるということはあまり知られておらず、「引退後に就職せず海外に行く」と言ったときには周りの反対もありましたが、信念を貫いたことで、スポーツと国際協力の両軸を生かすチャンスに恵まれたのだと思います。
今、世界規模で取り組むべき課題にSDGs(持続可能な開発目標)があります。これ以上の発展を目指さなくても、今ある環境に幸せを感じられれば、持続可能で平和な世の中を実現できるはずですし、日本にはそれができるだけの技術や伝統、文化があります。スポーツは、多様性を認め、相互理解を促すための手段としても注目されています。TOKYO2020では、世界に率先してそのような価値観を伝えられたら素敵だと思います。
SFTの任期終了後は、高齢者や女性、障害者も皆が格差なく平等に生きていける世の中にするために、スポーツと国際協力に携わってきた自分のキャリアを生かしたいと思っています。同時に、今やっているアメフトチームのコーチも続けて、若者を育てていくつもりです。選手だけで終わってしまうアスリートも多い中、指導者になって、好きな競技を伝えられるのは幸せなことです。どちらも両立していけたら嬉しいです。
2年間、日本と異なる価値観の中にいたことで、各々の文化が持つ魅力をフラットに評価できるようになりました。日本は、治安、教育、医療水準だけでなく、成熟した歴史や文化も素晴らしい国です。一方で、「毎日美しい夕日を見て、毎日同じことが繰り返されることが一番幸せ」だというバヌアツの価値観もまた素晴らしいと感じます。自分の中にバヌアツというもう一つの価値観の軸ができ、考え方の幅が広がりました。
アスリートなら「いつかは世界で」という夢もあると思います。選手として行くのは狭き門ですが、指導者なら様々な可能性があります。また、海外で同じ競技をやっている人とつながれることは、その後の人生にもプラスになるはずです。迷ったら踏み出してみてください。たとえ2年間で結果が出なくても、そこに行く意味はあると思います。