コーチではなく障害者の先輩として、
選手らと対等に向き合った日々。
任地のマレーシアでは、車いすバスケットボールを通じて障害者スポーツの普及を行うとともに、国際大会に向けたナショナルチームの指導も行いました。最初は練習の時間に遅れてくるなど不安な点もありましたが、障害がありながらもスポーツに挑戦するからには、「これから何かをしていこう」という情熱があるはずだと信じていました。何とかして、彼らの情熱を引っ張り出そうと、必死に取り組んだことを覚えています。
一方で、彼らは家に帰ったら車椅子も仕事もなく、生活がままならない状態でした。その中で自分がやるべきことは、障害者の先輩として「これまでどのように生きてきたか」を伝えることだとも感じていました。例えば、仕事や結婚について。自分自身がかつて彼らと同じように悩んだ経験から、同志として同じ目線で話す時間を大事にしました。その甲斐もあり、任期が終わる頃には、数人が日系企業で働くチャンスを手にし、現在では、家庭を持った人や会社を興した人もいます。自分なりに考えて、行動に移してくれたことが嬉しかったです。
今もマレーシアに行けば、当時の選手が必ず会いに来てくれます。アメリカやマレーシアで知り合った人が世界中にいて、友達付き合いが続いている。そういう人とのつながりや経験は、お金では買えない価値だと思います。