知られざるストーリー


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「ミチコ先生との出会いがなければ、今の自分はない」と語るセレムさん。

「最後に、日本は終始一貫、アフリカとの『真のパートナーシップ』を目指してきたことを述べようと思います。それは、ともに考えること、ともに働くことでした。ビジネスマンであれ、JOCV(青年海外協力隊)の若者であれ、アフリカで日本人は、まるで日本の工場現場で機械油を浴びにでも行くかのように、貧困や困難の現場へ入っていくことを、喜びとしてきました。彼らが肉体で示した勤勉さ、清廉さ、規律や礼節は、やがて揺るぎのない信頼をアフリカの人々から勝ち得るに至ったのです」

2013年6月に横浜で開かれた第5回アフリカ開発会議(TICAD V)。開会式における安倍首相のスピーチには、こんな一節が盛り込まれていた。会議に参加した約4500人のなかでも、とりわけ深い感慨でこれを聞いたであろう人物がケニア代表団にいた。同国園芸作物開発公社(HCDA)の総裁、アルフレッド・セレムさん(48)だ。

「彼女との出会いがなければ、今の自分はない」。セレムさんがこう断言する女性は、約35年前の1979~80年に、当時通っていたカプサベット中学校で数学を教わった青年海外協力隊員の教師、露木道子さん(旧姓:町田/59)だ。わずか1年間の付き合いだったが、露木さんが「身をもって示した」日本人らしい美徳に、セレムさんは揺るぐことのない信頼を寄せたのだった。
「勤勉さや礼節、謙虚さといった日本の文化を、ミチコ先生との交流で学べました。とりわけ、どんなときにも『希望』を持ち続ける姿勢は、将来のためにがんばろうと私たちを奮い立たせてくれた。ミチコ先生がいつも『がんばろう!(Work hard !)』と声をかけてくれたからこそ、私は一生懸命勉強したのです。今、一生懸命に働いているのも、彼女の『がんばろう!』が耳に残っているからかもしれません」

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露木さんが青年海外協力隊員として数学を教えていたカプサベット中学校の生徒たち。2列目の左から2人目がセレムさん

セレムさんは、1992年にケニア・ナイロビ大学大学院で農業経済の研究により修士号を取得した後、同国農業省に入職。2000年にはドイツのフンボルト大学に留学し、博士号を取得している。2004年に帰国すると、モイ大学で教鞭をとるように。再び行政の仕事に戻ったのは2007年。40歳そこそこという若さで現在の要職に就いたのだった。

同国における農業の第一線の専門家として活躍するまでになったセレムさんだが、カプサベット中学校で露木さんに数学を教わった同級生たちのなかには、ほかにも歯科医や大学の物理学の教授、会計士など、理数系の頭脳を武器とする仕事で活躍している例が少なくないという。それは決して偶然ではない、とセレムさんは強調する。
「ミチコ先生が教えたクラスでは、多くの生徒の数学の成績が上がった。ミチコ先生は、私たちに数学の基礎を身につけさせてくれたのです。印象的だったのは、先生が紹介してくれた『ソロバン』。四則計算が何でもできますし、見て触れながら、計算のロジックがよくわかる教材だと思います」

『がんばろう!』と応援する露木さんの意気込みも、セレムさんたちの学力向上を後押しした。寮生活の彼らは、毎晩7~9時の2時間、教室で自習をすることになっていた。教員は通常、この時間に教室に顔を出すことはない。一方、露木さんはこの時間に、教室に集まっている生徒たちを相手に、よく補講を提供した。露木さんはこれを「とても楽しい時間だった」と振り返る。
「日本の学校なら嫌がられるところですが、彼らは喜んで私に付き合ってくれた。私の英語がつたないばかりに、生徒たちの勉強に差し障りが出ないかと、いつも気がかりでしたが、意欲がある生徒たちとともに研鑽し合うというのは、本当に楽しい経験でした」

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露木さん(左から2人目)が約30年ぶりに教え子と再会した「同窓会」の様子。右から2番目がセレムさん。

青年海外協力隊員として派遣された当時、露木さんは20代半ば。帰国後は、結婚と子育てを経験した後に十数年間、中学校で理数科の教員として勤務した。40代半ばになり、教員を辞めて始めたのが着物の着付けの勉強だ。現在はこれを仕事にしている。
「協力隊時代、授業が始まるときに、セレム君たちは必ず『何か日本のニュースはありませんか?』とたずねてきました。そういうなかで、『日本をもっと知りたい。それが伝えられるようになりたい』という気持ちが強まっていった。着付けを習い始めたのも、そんな気持ちからでした」

「立派になったケニアでの教え子たちに比べたら、ごくふつうのおばさん」と自ら評する露木さん。そんな露木さんのもとに、セレムさんが連絡をとりたがっているという一報がJICAの現地事務所から入ったのは、ケニアを離れて実に30年近くが過ぎた2009年1月のことだ。これは、露木さんが青年海外協力隊の任期を終えて以来、初めて生まれたセレムさんとの接点だった。セレムさんは、研修を受けるために来日する予定とのことだった。教え子のなかでも出世頭の一人であるセレムさんは、当時すでにHCDA の総裁の要職にある身。同公社は、2006年から2009年までケニアで実施されたJICAの技術協力プロジェクト「小規模園芸農民組織強化計画プロジェクト(Smallholder Horticultural Empowerment Project=SHEP)のカウンターパート機関となっており、セレムさんはプロジェクトに参加していたJICA専門家に、露木さんと連絡が取りたいと相談していたのだった。

同公社副総裁の急逝により、来日は実現しなかった。しかしこのときから、セレムさんと露木さんのメールによる交流が始まる。「ソロバンがとても懐かしい」。セレムさんから送られてきた最初のメールに書かれていたのは、こんな思い出だった。その後のメールにも、「数学の基礎を教えてくれてありがとうございました」といった感謝の言葉が並んでいた。「ごくふつうのおばさん」が30年も前に必死になって数学を教えた少年が、「ふつうでない立派な人物」になっており、さらに当時のことをいまだに覚え、感謝してくれる――教師冥利、あるいは「青年海外協力隊冥利」を存分に感じられる文通だった。

2人がようやく顔を合わせることができたのは、2012年3月のことだ。露木さんは、仕事でケニアに出張する夫に同行するチャンスができ、その旨をメールでセレムさんに伝えたところ、当時のクラスメートを集めて会いましょうということになったのだった。露木さんは振り返る。
「飛行機がケニアの空港に着陸を始めると、涙が止まらなくなり、自分でもびっくりしました。このとき、ケニアはやっぱり私の第2の故郷なのだと思ったのです。空港まで出迎えてくれたセレムさんには、子どものころのとてもおとなしい雰囲気がそのまま残っていました」
「同窓会」の1日のスケジュールは、セレムさんがすべてを調整してくれた。セレムさんの声掛けに集まった同窓生は約10人。ひとしきり思い出話に花を咲かせた後、セレムさんと二人でカプサベット中学校を訪問した。その後、セレムさんは実家や現在の自宅などにも招いてくれた。
「私のつたない英語による授業で、大事なことがきちんと伝わっているのかどうか、当時からずっと自信が持てずにいました。ところが、同窓会ではみなさんから、『わかりやすい授業だった』と言っていただくことができ、ようやく少し安心できたのです」
TICAD Vでセレムさんが来日した際には、この「同窓会」のときのおもてなしへのお返しに、露木さんがセレムさんをさまざまな場所にエスコートしてあげたという。


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「セレムさんには『共感力』がある」と語る相川さんとセレムさん。

セレムさん率いるHCDAがカウンターパート機関となった技術協力プロジェクト「SHEP」は、TICAD Vの開会式における安倍首相のスピーチで触れられた話題の一つでもある。同プロジェクトが進めたのは、野菜づくりを行う小規模農家に対して、「できた野菜を売る」から「売れる野菜をつくる」へと発想と行動の転換を促すこと。それにより、対象農家の収入が倍増するなどの成果が上がった。首相のスピーチでは、農業分野における日本のアフリカ支援の好事例として言及されたのだった。SHEP そのものは2009年に終了したが、ケニアでは現在、SHEP方式の改革をケニア全土へと展開させる技術協力プロジェクト「小規模園芸農民組織強化・振興ユニットプロジェクト(SHEP UP)」が進められている。このプロジェクトのカウンターパート機関もHCDAだ。

TICAD Vの開会式には、JICA専門家としてSHEP のチーフアドバイザーを務めた人物も列席していた。「アフリカで働くことを、自分自身の喜びとするたくさんの日本人の代表」として、首相から名指しで紹介を受けた相川次郎さん(44)だ。約20年前に青年海外協力隊員としてタンザニアで果樹栽培の指導にあたって以来、農業分野の国際協力の専門家として、もっぱらアフリカでの案件に携わってきた人物である。
相川さんはSHEP が終了して間もない2010年には、農業開発・農村開発分野のJICA国際協力専門員に就任。JICA本部に籍を置きながら、JICAが実施する農業関連の事業のアドバイザー役を務めている。相川さんがアドバイザーを担当する事業のなかには、当然、SHEP UPも含まれている。

そんな相川さんとセレムさんの付き合いは、セレムさんが HCDA の総裁に就任して以来、約6年に及ぶ。高校時代に青年海外協力隊員に数学を教わった経験を持つことは、HCDA の総裁に就任したセレムさんのもとにあいさつに訪れた際にすでに聞いていた。
「セレムさんは、ひとことで言うと『共感力』を持った方だと思います。自分の意見を相手に押し付けるのではなく、相手の意見によく耳を傾ける。そういう方だから、腹を割ってプロジェクトの問題点を話し合うこともできる。セレムさんはこの共感力を、露木さんという異文化の人間との付き合いのなかで身につけていかれたのではないでしょうか。というのも、私自身、青年海外協力隊員として現地の人と接するなかで、相手に自分の考えを押し付けるのではなく、『その考えには何か理由があるのだろう』と相手の事情を察知する『共感力』が培われていったからです」

露木さんとセレムさんは現在、互いの近況を報告し合うだけの付き合いにとどまらず、協力してある社会貢献の取り組みを行っている。ケニアの子どもの就学支援だ。露木さんは「同窓会」でケニアを再訪した際、セレムさんに案内されて彼が理事長を務める高校を見学。「地域を良くするためには、教育が必要」という考えから、彼がその高校の 4人の生徒の学費を支援していることを知った露木さんは、彼に紹介を依頼し、自分も一人の生徒の学費を支援することにしたのだった。ビクター君という名の男子生徒である。
「協力隊時代、ある近所の少年から『中学校の入学試験に合格したけれども、授業料が払えない』という話を聞いたことがありました。そのときは、授業料を支援するという考えが浮かびませんでした。ところが、帰国してからもずっと、『彼の人生はどうなったのだろうか』と気がかりで仕方がなかった。今回、ビクター君の就学支援をすることにしたのは、あのときの少年への罪滅ぼしの気持ちもあるのです」

ビクター君の様子については、ときおりセレムさんから報告が入る。TICAD Vで来日した際にも、こんな報告をしてくれた。
「私がいつも『がんばろう!(Work hard !)』と声をかけているので、ビクター君は一生懸命勉強していますよ」

35年の歳月を経て、露木さんにとってケニアがまたにわかに身近な存在となった。

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