知られざるストーリー

ブータン国王夫妻の来日

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国会演説を行う5代ワンチュク国王

2011年11月、ブータン王国のジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王がジェツン・ペマ王妃と共に来日した。東日本大震災で被災した東北地方を訪れて祈りを捧げ、被災地の子どもたちに温かい言葉をかける国王夫妻の姿に、多くの日本人が感銘を受けたのは記憶に新しい。
「いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし、このような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民です」
この国王の国会での演説は多くの日本人の心を打ち、勇気づけた。
とはいえ、遠く南アジアのブータンというなじみのない国が、なぜこんなにも深く日本人の心に寄り添ってくれるのか不思議に思った人も多かったはずだ。実は、あまり知られていないがブータンと日本は、JICAなどの支援を通じて長年にわたり交流を深めてきたのである。


知られざる国ブータン

九州と同程度の広さの国土を有するブータンには、現在約70万人の人々が暮らす。東西と南はインドに、北は中国に隣接し、周辺大国の影響を受けながらも独自の文化を築いてきた。公用語はゾンカ語で、国民の大半は敬けんな仏教徒。ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク第5代国王を元首とする立憲君主制の国である。主な産業は農林業と電力で、中でもヒマラヤの豊富な水源を生かした水力発電は、余剰分を隣国のインドに輸出するほど大きな発電量となっている。電力輸出高は実に国家歳入の4割を占める。

ブータンが国際社会で注目を集めるようになった理由は、ジグミ・シンゲ・ワンチュク第4代国王の時代から始まった独自の政策にある。それは世界初の禁煙国家となったこと、文化継承のために民族衣装の着用を義務付けたことなどが挙げられるが、最も世界を驚かせたのは、国の成長指標を国民総幸福量(GNH:Gross National Happiness)に置いたことである。GNHとは国民全体の幸福度を測るオリジナルの尺度。「幸福には物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさが大切である」という考えに基づいて第4代国王が提唱した。これにより、ブータンは「世界で一番幸せな国」として一躍有名になる。

「ブータン農業の父」西岡京治氏と青年海外協力隊との絆

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1980年代後半の当時のブータンの農村。

そんなブータンと日本のかかわりは1964年、コロンボ・プラン(開発途上国援助のための国際機関)の専門家(後にJICA専門家)の派遣に始まる。以来、日本は農業開発やインフラ整備への技術・資金協力を中心として、ブータンに対し幅広い援助を行ってきた。JICAのボランティア派遣は累計472人にのぼり、現在も26人の青年海外協力隊と13人のシニア海外ボランティアがブータンで支援活動を行っている。(2012年4月30日現在)
こうした両国の長い関係を語るには、ある人物の存在が欠かせない。


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「ブータン農業の父」ダショー西岡氏と飯野さん(右)。

ブータン全土にその名を知られ、「ブータン農業の父」と呼ばれた西岡京治氏である。1964年、海外技術協力事業でブータンに派遣された西岡氏は、28年の長きにわたり現地で農業の技術指導を行った。まず苗を効率的にラインで植えるところから米作りを指導し、農業の機械化や品種改良など次々に改革を進めた。さらにその活動は農業分野を超え、ブータン人の食生活の改善、架橋による流通の促進、地域開発にまで及ぶ。こうした西岡氏の貢献はブータン国民に高く評価され、ジグミ・シンゲ・ワンチュク第4代国王より、「最高に優れた人」を意味する名誉称号である「ダショー」を外国人として初めて贈られている。


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飯野 宏さん(昭和63年度派遣/ブータン/農業機械)

その西岡氏をよく知る青年海外協力隊がいる。1988年、ブータンの地に協力隊として赴いた飯野宏さんだ。飯野さんは、西岡氏がブータンに作ったボンディファームという、農業の機械化や野菜の品種改良を行う拠点に赴任した初代の隊員。そこで約3年にわたり、農業機械の普及に努めた。当時、飯野さんが見た西岡氏は、既にダショーの称号を得ていたにもかかわらず、いつもトレードマークのつなぎを着て現場を飛び回っているきさくな人、だったそうだ。「西岡さんはブータン人をこよなく愛し、人々の生活を助けたいと常に考えていました」
その国の文化でもある農業を変革するのは、非常にデリケートな難しい仕事だといわれる。だが、西岡氏はブータン人を深く理解し、人々の心に寄り添いながら、粘り強く指導して成果を出していった。その様子を目の当たりにした飯野さんは、「国際貢献のお手本といえる活動だったと思います」と、共に働いた経験が自らの人生に大きな影響を及ぼしたと語っている。

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西岡氏のもとで、飯野さんが活動をしていた当時のボンディファーム

飯野さんには忘れられない出来事がある。飯野さんが帰国して約半年後、ブータンの西岡氏から手紙が届いた。文章を書くことが嫌いでレポートなどもめったに書かなかった西岡氏からの突然の便りを、少し不思議に思いながら読んでいると、そこへちょうど西岡さんが亡くなったという知らせが飛び込んできたのだという。「半年前まであんなにお元気だったのに、すごくショックでした。手紙には、ブータンで私がお手伝いしたことが収穫量の増加という形で実を結んでいるという報告と御礼、そして私の今後の活動に対するはげましの言葉が綴られていたんです。それを読んでいる時に、訃報を聞いて・・・もう本当に何と言っていいかわからないような気持ちでした」。 現在の飯野さんは、農業機械メーカーの担当者という立場からではあるが、再び途上国の農業開発に携わっている。あの手紙は西岡さんから託された支援のバトンだったのかもしれない、そう感じているという。

5代ワンチュク国王にバスケットボールを教えた隊員

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岡田 直子さん 旧姓木下
(平成5年度派遣/ブータン/体育)

ブータンへの支援を通して貴重な体験をした青年海外協力隊は、ほかにもたくさんいる。その一人が岡田直子さんだ。
岡田さんは1993年に体育教師としてブータンに赴任した。当時は今以上にブータンの情報は少なく、赴任前は不安な思いもあったという。しかし、出迎えてくれたのは、日本の田舎によく似た風景と日本人にそっくりな顔立ちの穏やかな人々。岡田さんは驚くほどすんなり現地に溶け込むことができたという。「カバンのファスナーが開いていると、通りがかりの人が教えてくれる」(岡田さん)というぐらい治安も良く、岡田さんも親切なブータンの人々に生活のさまざまな面で助けてもらったと語る。
そのころの岡田さん、まだ高校生だった5代ワンチュク国王に体育を教えたことがあるそうだ。


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当時からバスケットボールが非常にうまかった。高校時代の国王(中央9番の選手)

当時のブータンは、音楽や図画、体育などの情操教育を始めたばかりで、学生たちも体育の授業にようやく慣れてきた時期だった。岡田さんは女子生徒を教えていたが、体育教師が2人しかいなかったので、時々手伝いで男子生徒も教えていた。その中に、皇太子だった現在の5代ワンチュク国王がいたのである。岡田さんは、男子生徒にはバスケットボールの試合で審判をして、ルールなどを指導したことがあったぐらいと回想するが、国王は「岡田さんにバスケットボールを厳しく教えてもらったおかげで、アメリカの大学に入学した時に選手になれたんですよ」と、来日時の接見で岡田さんに直接感謝の言葉をかけられている。岡田さんは国王が自分を覚えていてくれただけでもうれしかったが、隊員たちの活動について感謝し、一人ひとりに直接声をかけてくれたことに感激したという。「当時は本当に普通の男子生徒の一人でした。でも私たちの活動を見て、いろいろ感じてくださっていたんですね」


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マスゲームの指導を行う当時の岡田さん(中央)

一度、皇太子としての顔を見たこともある。日本で阪神淡路大震災が発生した1995年、岡田さんはブータンに滞在していた。この時にブータン国民は日本を大変心配し、皇太子だった5代ワンチュク国王も僧侶たちと共に長い祈りを捧げる儀式を執り行っていた。
岡田さんは、今回の東日本大震災に際して祈りを捧げる国王の姿を見て、その時のことを鮮明に思い出した。ブータンの人々の温かい思いやりがずっと以前から日本に向けられていたことを多くの日本人に伝えたい、今そう考えている。


ブータン国王夫妻と隊員との交流

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東日本大震災一周年追悼式。ブータンに赴任中のJICAボランティアらとともに祈りを捧げる国王夫妻

現在も飯野さんや岡田さんに続いて多くの隊員がブータンに入り、教育や観光、農業、電力などさまざまな分野で支援活動を行っている。昨年、国王夫妻の結婚祝賀曲を作って注目された神谷桂二郎さんも、ブータンで活動している青年海外協力隊の一人だ。その曲は祝賀式典で子どもたちが歌ったことからブータン国内で大評判となり、今も各地から演奏の依頼が舞い込んでいるという。また、神谷さんは東日本大震災の追悼曲も作ったが、こちらも現地のラジオでよく放送されているそうだ。青年海外協力隊が、こうした草の根の活動を通じてブータンの人々と築いてきた信頼関係は、長い年月を経て今さまざまな形で実を結び始めている。
そして、そのことに誰よりも関心を持たれているのが5代ワンチュク国王、そしてペマ王妃である。ペマ王妃も幼いころに隊員から授業を受けられたことがある。だからこそ国王夫妻と隊員たちとの距離はとても近い。先日、東日本大震災一周年追悼式が首都ティンプーで行われた際にも、国王夫妻は隊員たちと一緒に祈りを捧げられたという。
今回の来日にあたり、国王は自ら「帰国したJICAボランティアに、現地での協力に対して感謝の気持ちを伝えたい」と述べられ、急きょ接見の場を設けられた。この席で国王は、隊員の一人ひとりと握手され、なごやかな雰囲気で歓談された。また、岡田さんのような顔見知りの隊員を見つけては、再会を喜ばれていたという。
国王の隊員たちへの感謝の気持ちは、先の国会演説の中でも表されていた。

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国王夫妻来日時のご接見にて、18年ぶりの再会を果たした岡田さん。

「ブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、日本からは貴重な援助や支援だけでなく力強い励ましをいただいてきました。(中略)言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。それゆえに日本政府、およびブータンで暮らし、我々とともに働いてきてくれた日本人の方々の、ブータン国民へのゆるぎない支援と善意に対し、感謝の意を伝えることができて大変うれしく思います」
この国王の言葉には、感謝の心を大切にするブータンの精神が表れている。
関係各国から「支援する側がうれしくなるような、支援のされ方をしている」と評されるブータンだが、かといって支援されるだけの存在ではない。2020年に被援助国から卒業することを目標に、しっかりと経済発展に取り組んでいる。日本が今後、経済的豊かさだけでなく、心の豊かさや「幸福」というものに配慮した社会づくりを進めていく上で、独自の幸福のかたちを築き、経済的豊かさ以外の「人々の幸せ」を大切にしているブータンから、日本が見習うべき点も多いのだ。さらに、環境と伝統文化を守ろうとする意識の高さ、勤勉さ、物を大切に使う精神など、ブータンの人々には私たち一人ひとりが学ぶべきこともたくさんある。

2011年11月の国王来日やGNH(国民総幸福)について話題になったことで、日本国民の注目を浴びることとなったブータンと日本との関係は、1988年に協力隊派遣が開始されて以来、長きにわたり続いてきているが、もともと日本での認知度は決して高いものではなかった。しかし協力隊を通じ脈々と続いてきたブータンと日本の関係と、草の根で活動する隊員が蒔いた交流の種は少しずつ芽を出し、互いの文化や精神を尊重し合いながら、現在のブータンと日本の関係を築いてきた。
これからもブータンと日本は両国の発展のために、青年海外協力隊をはじめとしたさまざまな交流を続けていくに違いない。

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