2010年3月、ガーナをご訪問された皇太子殿下は、首都アクラ市にある青年海外協力隊の慰霊碑へご供花された。そして滞在中、ガーナのアチュワ村産のパイナップルを召し上がり、「大変おいしかった」と感想を述べられた。
今からさかのぼること21年前、一人の若者が青年海外協力隊員として、2年2ヶ月間ガーナのアチュワ村のために全力を注ぎ、村の発展の立役者となった後、ガーナの地で不慮の事故に遭い、27年間の人生にその幕を下ろした。
長崎県出身の武辺寛則(たけべ ひろのり)さんは、大学を卒業後に商社へ就職。25歳の時に会社を退職し、少年時代からの夢をかなえるために、青年海外協力隊に参加した。そして1986年12月、ガーナの首都アクラから西に120km離れた、アチュワ村に三代目の村落開発普及員として派遣された。
武辺さんの村での役割は「自給自足の村で、現金収入の向上を計るプロジェクトを、村人とともに企画・実行する」というものだった。
アチュワ村の人々と武辺さん。人々は皆、武辺さんを信頼していた。
武辺さんは、まず村内の戸数や人口の調査をすることからはじめ、第一段階として村の農業を伸ばすことを決定。その中でも特に、養鶏に力を入れた活動をスタートさせる。失敗を繰り返しながらも、養鶏の指導で派遣されている他の隊員からの研修を受けたりしながら、普及活動を進めていく。時には、大雨による水害に見舞われたり、鶏舎が蟻の大群に襲われたりしたこともあったが、村の発展を第一に考えた活動により、武辺さんはアチュワ村の人々の信頼を得ていった。
それと同時に、短期収入向上を目的とした養鶏だけでなく、村に適した将来性のある換金作物の生産向上を目標に、もともと少量ながらパイナップルを栽培していたこの村で、パイナップルファームプロジェクトに着手する。
武辺さんはパイナップルの栽培希望者約70名をまとめるために「アチュワ村パイナップル協会」を設立し、会員たちの連帯感や責任感を促すために、全員から会費を徴収した。その会費を協会の活動の資金としたのも武辺さんのアイデアだった。当初は反対意見も多く出たが、協会運営のために根気強く会員たちを説得し続けた。武辺さんは、乾季の暑い時期にもフラフラになりながら、畑に移植された苗の状況を確認して見て回った。こうした日々の努力が、アチュワ村の人々との心の絆をさらに強くしていったのだった。
武辺さんは伝統衣装と装身具を身にまとい、アチュワ村のナナ・シピに就任した
活動も順調に進むある日のこと、武辺さんは長老たちに呼ばれ、「村のまとめ役であるナナ・シピという役職に就任させたい」と、切り出される。
「いつかは村を離れる人間なので、こんな責任ある仕事はとてもできない」と、断ったものの、1週間後に長老の1人が再びやってきて、
「たとえ日本に帰っても、ナナ・シピになっていればきっとアチュワ村のことも忘れないだろう。それにもう1年以上ガーナにいるのだから、是非とも引き受けてもらおうと話し合いで決まった」と告げられた。
そして、1988年9月24日のアチュワ村収穫祭の日に、武辺さんは伝統衣装と装身具を身にまとい、アチュワ村のナナ・シピに就任したのだった。
武辺さんは、パイナップルの市場拡大を目標に、国外への輸出を計画。また、自分が帰国した後でも、養鶏とパイナップルの二つの事業を村に定着させるために、任期を一年延長する。
しかし延長から2ヵ月後の1989年2月25日、村の病人を幹線道路まで運ぶために小型トラックを運転中、トラックが横転し、27年間の人生に幕を閉じたのだった。
アチュワ村のパイナップル。今では欧州に輸出されるまでに。
武辺さんの死後、パイナップル栽培で発展したアチュワ村には「タケベガーデン」と名づけられた記念公園が建設され、慰霊碑も建てられた。武辺さんが情熱を注いだアチュワ村のパイナップル栽培は、現在では山一面に広がり、欧州にも輸出されるほど、村の収入源として完全に定着している。
武辺さんのご両親は、武辺さんが残していた遺書に従い、葬儀で寄せられた弔慰金を子どもの教育に使ってほしいと、アチュワ村の保育所建設のために寄付した。そして21年経った現在でも、定期的にこのアチュワ村を訪問している。アチュワ村では、この村の発展の立役者である武辺さんのご両親を毎回歓迎し、生まれてくる村の子どもたちにも武辺さんのことを今でも語り継いでいる。
2009年にアチュワ村を訪れた武辺さんのご両親は、村の人たちからあるものが欲しいと要望されたという。それは、武辺さんの生前の写真だった。
「村が続く限り、武辺さんのことを子孫にも伝えていきたい」という村の人たちの熱い想いに、ご両親は写真を綺麗な額縁に入れ、アチュワ村の人々にプレゼントし、大変喜ばれたという。
アチュワ村を訪れた武辺さんのご両親。タケベガーデンの慰霊碑の前で。
武辺さんは、隊員時代の自身の日記にこう綴っている。
「手がけてきた活動は、すべて村の人たちやガーナに派遣された他の協力隊員たちの協力を得たものであり、常々感謝の気持ちが絶えることがない。」
そして、武辺さんがガーナに来て学んだ多くの中の一つで、日ごろから教訓としていたセリフがある。
「意志ある所、道は通じる」。
必ず目標を達成するという強い意志があれば、試行錯誤しながらも何らかの方法が見つかるという意味である。
武辺さんの不慮の事故から約20年後、ガーナでは青年海外協力隊、シニア海外ボランティアの派遣が1000名を超え、ガーナ国内の新聞でも報じられた。平成22年、累計派遣数が4万人を突破したJICAボランティア事業の歴史の中には、このように志半ばで命を落とされたボランティアの方々がいることを私たちは決して忘れてはならない。