知られざるストーリー

心の復興支援 ~インドネシア・パダン沖地震~

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活動地であるパダン・パリアマン県内では小学校401校のうち、305校が被害を受けた。

2009年9月30日、インドネシア西スマトラ州パダン沖で発生した地震により、1,117名が亡くなり、約13万戸の建物が崩壊した※ 。その翌日には、日本からもインドネシア政府の要請に基づき、国際緊急援助隊救助チーム65名と医療チーム23名が派遣された。しかし、地震発生時には大きなニュースとして取り上げられても、「その後」がニュースとなることはあまりない。被災した人々はその後も強いストレスを感じ、子どもたちの中には大きな音に過敏に反応したり、怖がって泣き出したり、地震によるショックで学校に登校できなくなった子どもも多いという。そんな「その後」の被災地で、子どもたちの心のケアを中心に復興支援活動を行った青年海外協力隊がいる。
※インドネシア政府2009年10月15日発表データによる

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運動会では、大縄跳び、5人6脚、ボール運び、応援合戦などを行った。

2010年1月から半年間、被災地であるスマトラ島パダン・パリアマン県にて、3期に渡りチームを構成し、計23名の隊員が活動した。第1期では地震発生以来、ストレスを抱えている子どもたちに楽しんでもらうため、小学校対抗の運動会を実施した。はじめて運動会に参加する子どもたちのために、各小学校を巡回し、1ヶ月間をかけてレクリエーションや競技指導、応援歌の練習を行い、本番ではこれまでにない子どもたちの笑顔も見られ大成功を収めた。

しかし、第1期チームとして参加した島津五月さんは「現地の教員の災害に対する知識や衛生・健康に対する理解が乏しく、子どもたちが落ち着いて安心して勉強ができる環境にしてあげることが新たな課題だと思った」と言う。これを受けて第2期からは従来までの心のケアに加え、またいつ起こるかわからない自然災害への備えとして、防災の視点も取り入れた活動の準備を進め、第3期では5つの小学校を中心に防災教育プログラムを実施した。

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人形劇では「非常用持ち出し袋」を用意していたカエルくんと、用意していなかったウシくんのストーリで、子どもたちに地震への備えの重要性を伝えた。

しかし、インドネシアで防災教育プログラムを実施するのは容易なことではなかった。赴任するにあたって、防災に関する本を読んだり、母校の小学校へ赴き、児童に対する防災教育について話を聞いたりと、事前に情報を集めた隊員も多い。しかしながら、日本の防災知識がインドネシアの生活環境に適したものとは限らず、隊員はそれを現地の生活から肌で感じた。例えば、日本では「揺れたら机の下へ、ある程度揺れが収まったら外へ速やかに避難する」と教育しているが、インドネシアの建物は大変もろく、震度4程度の揺れでも崩壊する場合もあるという。そのため、日本の常識は通用せず、まずは屋外へ走って逃げるように伝える必要があった。それでも、出口に殺到する人が倒れて圧死したり、逃げる途中に落下物にぶつかって死亡したりする危険がある。さらに、被災経験のある隊員からは、激しい揺れの中、経験上歩くことは困難だという指摘もあった。


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防災教育プログラムではチームで協力し、楽しみながら防災知識を学んでもらうように工夫した。

不安や苦労が多い中で、隊員は話し合いを重ね、地震災害分野で活動しているJICA専門家の協力も得ながら、インドネシアのためのオリジナル防災教育を考えた。そして小学校での防災教育プログラムでは子どもたちが楽しみながら学べるように、人形劇やゲーム、クイズなどを取り入れなどの工夫を凝らした。小田原瑞帆さんは「子どもたちは普段とても明るく、元気にしているけれど、地震に対しての不安感や恐怖心は依然として根強く残っています。だからこそ、地震は怖いものだけど、正しい知識を身につければ対処できるものだということを繰り返し伝えるようにしました」と話す。プログラム終了時には子どもたちから「地震について勉強したからもう怖くない」「地震が起きたらどうすれば良いかわかった」などという声があがった。子どもたちの地震に対する考え方は徐々に前向きに変わっていった。

心のケア、それに加えて行った防災教育。この2つの取り組みにより、「口数が少なかった子どもたちが明るくなったり、自信がついたり、会話も増え、良い変化が見られた」と現地の教員も評価している。それらの取り組みは特別なものではなく、すべてちょっとした工夫でできるものばかり。今回、子どもたちと一緒に防災について学んだインドネシアの教員には、これからも毎年子どもたちへ防災について伝え続けて欲しいと伝え、全てのプログラムを終了した。

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「非常用持ち出し袋」クイズでは、並べられた写真の中から適切なものを選ぶ。

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非常用持ち出し袋の正解は、水、ラジオ、蚊取り線香、懐中電灯など、10点が入る。

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地域の人々にも防災の大切さを伝えようと、防災知識をまとめたチラシを1,800枚作成し配布した

また、隊員らは子どもたちだけでなく、少しでも多くの人に防災知識を知って欲しいという思いから、対象小学校の他にも様々な場所へ足を運び、防災に関する情報をチラシにまとめて配布したり、防災の要点を分かりやすく取り入れたオリジナルの防災歌で訴えたり、様々な方法で地域の人に防災を伝えた。

地震発生から生活が一変してしまった子どもたちにとって、被災によるストレスを軽減し、今後も起こりうる地震への備えができたことは、彼らが今後の人生を力強く生きていく道標を示したに違いない。「地震の多いインドネシアで、対処法をわかっているということが生きる力になっている」という現地の教員の言葉があったように、隊員たちは子どもたちに生きるための大きな自信と勇気を与え、隊員もまた、インドネシアの子どもたちから生きる喜びを与えられ帰国した。

 

 

 

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子どもたちが楽しむことでストレスを軽減し、防災を身につけるように工夫を凝らした。

今回活動した隊員の中には宮城県沖地震や阪神・淡路大震災、新潟県中越地震など、被災経験がある人も少なくない。中西美樹さんは自身が被災者となった阪神・淡路大震災を振り返り、ショックだったこと、昨日までの当たり前の生活がガラリと変わったこと、3ヶ月間学校に行けなかったこと、ボランティアとして活動しようとしても何もできなかったこと、様々な思いを胸にインドネシアに向かった。小田原瑞帆さんもまた、小学1年生のときに宮城県沖地震を経験した一人である。当時、外で遊んでいた小田原さんは揺れが収まり家に戻ると、家は壊滅状態になり、とても人が住めるような状態とは言えず、その日から車の中で寝泊りした。翌日、学校に行くと、窓ガラスは割れ、いつもの教室とは思えないくらい想像を絶するような状態になっていた。そんな被災状況を見ていたら、いつまた学校へ通えるようになるのか、前のような生活に戻れるのか大きな不安に襲われたのを覚えているという。この経験があったため、小田原さんはインドネシアの子どもたちが今回の地震でどれほど心的なダメージを受けただろうかと、考えずにはいられなかった。必ず大地震が起きると言われる土地に住む子どもたちが、無防備な状態で再び地震に遭うのと、正しい知識を学び、備えを用意することの大切さを知った上で地震に遭うのでは、その結果は大きく違うはず。そう信じて小田原さんは活動した。現地では被災による心のケアなどの活動例は他になく、地震大国日本からやってきた青年海外協力隊がいるだけだった。全てゼロから自分たちで考え、試行錯誤しながら活動していく中で、同じ被災者だからこそ、相手の気持ちになり、伝えられたことも多かったという。最後に、小田原さんは「自分がそうであったように、経験を生かして前へ進むことはできるはずだし、インドネシアの子どもたちもすでに前に進み始めているように感じました」と振り返った。

 

 

計23名の隊員:伊藤 奈保、宇野 智英子、海老澤 翼、奥村 麻衣、桶田 陽子、小田原 瑞帆、改発 大記、貫洞 沙織、税所 裕太、島津 五月、杉渕 エリナ、鈴木 亮、諏訪 雄次朗、中西 美樹、二階堂 のり子、野澤 聖子、長谷川 裕子、早坂 史帆、松本 武士、丸山 秀光、宮崎 大地、山岸 真梨子、弓削田 裕子 (敬称略)

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