知られざるストーリー

世界最大級の足跡化石を発見 ~恐竜を追ってモロッコそしてモンゴルへ~

現役ゼミ生32人が協力隊に


マラウイで青年海外協力隊として活動していたころの浅野さん

青年海外協力隊の平均年齢は27歳前後。大学卒業後、数年の社会人経験を経て協力隊に応募する人が多い。そうした中で、現役の大学生を多数、協力隊に送り出している大学が大阪にある。その大学の名は摂南大学。グローバル人材育成の一環として協力隊への参加を推奨しており、2006年からこれまで、選考試験に合格した学生の数は32人。現役大学生の合格者数は全国でもトップクラスを誇る。

協力隊に参加した学生は全員、外国語学部教授の浅野英一さんのゼミ生だ。摂南大学を卒業して社会人を経験した後に参加した者や他大学の学生も含めると、浅野さんが協力隊に送り出した教え子は約50人になる。そこには「現場で活躍できる専門職業人を育てたい」という摂南大学と浅野さんの熱い思いがある。かく言う浅野さんも協力隊の経験者だ。1983年から2年間、測量士としてアフリカのマラウイで活動した。さらに、1993年から7年間、JICA専門家としてケニアで国際協力に従事した経験を持つ。
それまで、海外にも国際協力にも縁がなかった浅野さんが協力隊員になったのは、友人に誘われ、名古屋市内で開かれた募集説明会に参加したことがきっかけだ。専門学校を卒業し、愛知県豊田市の土木コンサルタント会社にエンジニアとして就職して3~4年経った頃のことだった。
「会社の仕事にも慣れてきて、いろいろなことに挑戦したいと思っていました。しかし、説明会で聞いた協力隊の活動はとても自分にできることではないと思う一方、何か心をワクワクさせるものがありました。そこで、駄目でもともとという気持ちで応募することにしたのです」
マラウイでの活動内容は、タンザニアとの国境近くの地形図を作成し、道路を設計することだった。しかし、そこはマラウイのジャングル地帯。活動は予想以上に過酷だった。「マラリアにかかったこともあり本当に大変でした」と浅野さんは笑いながら当時を振り返る。悔しい思いもした。マラウイは日本以上に学歴主義で、会議に出席できるのは大卒のスタッフだけ。大学を卒業していない浅野さんは出席させてもらえなかったのだ。

人と人とが自然につながる社会

マラウイで青年海外協力隊の隊員として活動をしていた時、同じアフリカの国ケニアにあるジョモ・ケニヤッタ農工大学を訪れる機会があった。休暇を利用して同期隊員の任地を訪ね、彼の配属先である大学に立ち寄ったのだ。ジョモ・ケニヤッタ農工大学は、農業や工業分野の技術者を育成することを目的に設立された大学で、日本は1970年代後半から無償資金協力や技術協力を通じて校舎の建設や機材の供与、組織体制づくり、教職員などの人材育成に協力してきた。同大学には1980年からJICA専門家が、翌1981年からは協力隊員も派遣されていた。現在ではアフリカ有数のレベルを誇る理系大学に成長しているが、浅野さんが訪問した当時は、まだ学士号を取得できない「ディプロマ大学」という位置付けだった。

浅野さんが土木工学科の授業を窓越しに見学していると、そこにはケニア人の教員を指導する日本人の姿があった。ジョモ・ケニヤッタ農工大学では、日本から来た農業や工業の専門家たちが、ケニア人教員の能力強化に取り組んでいた。その日本人の言葉に、ケニア人の教員は真剣な表情でうなずいていた。

「なんてカッコいいんだろうと思いました。聞けば、その日本人はJICAの専門家(※1)とのことでした。たまたま同期隊員が活動していたジョモ・ケニヤッタ農工大学でJICAの専門家という仕事があることを知り、自分自身もここで専門家として活躍したいという夢ができました」と浅野さん。しかし、大学で教える専門家になるには、大学卒以上の学力と英語で指導するための十分な語学力が必要だった。マラウイへ戻る飛行機の中で、浅野さんは協力隊の任期が終わったらアメリカの大学に留学することを決意。マラウイでは、ランプの灯りの下でひたすら英語の勉強をしたという。

マラウイでの任期を終え日本に帰国した浅野さんは、1年後、米国ジョージア州立の工科大学3年に編入した。2年間で大学を卒業し、JICAの専門家に応募するというのが浅野さんの計画だった。ところが、ジョモ・ケニヤッタ農工大学はその後、ディプロマ大学から大学へと昇格し、将来的には大学院を設置することが決定。大学院を設置するためには、博士号を持つケニア人教員を養成する必要があり、当然、その教員を指導する専門家にも博士号が求められることになる。そのため浅野さんもジョージア工科大学の大学院へと進み学位を取得することになり、留学は7年にも及ぶことになった。2年間のつもりでいたため、学食で皿を洗い学費を稼ぎながら勉強を続けるという日々。それでも「専門家になるという夢があったので苦しいとは思わなかった」と浅野さんは笑う。

7年にも及んだジョモ・ケニヤッタ農工大学での業務

  • ジョモ・ケニヤッタ農工大学の教員にアスファルト成分分析機器の操作方法を教える浅野さんん
  • 2015年3月にジョモ・ケニヤッタ農工大学のキャンパス内で開催された総合大学への昇格20周年を祝う式典(写真:久野真一/JICA)
  • 首都ナイロビから北方40キロメートル郊外にあるジョモ・ケニヤッタ農工大学のキャンパスを歩く学生(写真:久野真一/JICA)

7年間のアメリカ留学を終えた浅野さんは、JICAのジュニア専門員(※2)を経て、1993年に10年越しの夢をかなえ専門家としてジョモ・ケニヤッタ農工大学に赴任した。浅野さんの業務は土木工学科の学生に授業を行うことと、大学の教員を養成すること。赴任した当時は、大学院課程の設置に向けて動き始めたところで、修士号・博士号の学位を取得させることはできなかった。そこで、カウンターパートである若い教員や優秀な卒業生を日本の大学に留学させ、学位を取得することになっていた。留学先となったのは、ジョモ・ケニヤッタ農工大学を支援するJICAのプロジェクトにサポート大学として参加している日本の大学だった。浅野さんは留学の準備を手伝うとともに、修士論文や博士論文の執筆に必要な研究を指導した。カウンターパートが研究発表をするためにイギリスやインド、タイに渡航する際にも同行した。教え子の多くはその後、ジョモ・ケニヤッタ農工大学や他大学の教員となり技術者の育成に携わっているほか、ケニアや日本の民間企業でも活躍しているという。

浅野さんのジョモ・ケニヤッタ農工大学での専門家派遣は、2000年まで7年間にも及んだ。これほど長期間、学生や教員たちと一緒になって大学の底上げに取り組んでこられたのは、「協力隊として活動していく中で、異文化の中でどう行動すればお互いに理解し合えるかを身に付けることができたから」だと話す。彼らの立場に立って物事を考えることができたからこそ、信頼も得られ、ここまで長く続けられたのだ。

専門家として着任して3~4年ほど過ぎた頃、浅野さんの心境に変化が訪れた。「ケニアの人を育てることも大切だけど、日本の若い人をグローバル人材として育てることも大切なのではないか」と感じるようになった。夏休みになると、日本のサポート大学の学生が国際協力の現場を体験するためジョモ・ケニヤッタ農工大学に来ていた。しかし、浅野さんの目には日本の学生が弱々しく、頼りなく映ったという。「特に感じたのはコミュニケーション能力の低さ。語学力の問題ということではなく、自分の考えを言葉にして伝えられないんです」

日本の学生を育てたいという思いが強くなっていったちょうどその頃、ケニアでは大統領選挙に絡んだ部族間の抗争やイスラム過激派によるアメリカ大使館爆破テロなどが起こり、治安が急激に悪化していた。家族を連れて赴任していたため、浅野さんはケニアで子どもを育てることに不安も感じるようになっていた。そこで、「日本の学生をグローバル人材として育てる」という新たな夢を実現させようと、2000年、ジョモ・ケニヤッタ農工大学プロジェクトの終了とともに日本へ帰国。2002年、摂南大学国際言語文化学部(現・外国語学部)の教職に就いた。

日本で新たな夢を追いかける日々

和歌山県すさみ町の独居老人宅を訪問する浅野ゼミの学生たち

日本の学生に最も足りないと感じたコミュニケーション能力を育てるために、浅野さんがゼミ生に勧めているのが青年海外協力隊への参加だ。浅野さんが考えるコミュニケーション能力とは、単に意思の疎通を図る能力のことではなく、言葉や文化の壁を越えて、自分がやるべきことを見つけ、自分から行動する人間になるために不可欠な能力のこと。それを身に付けるためには、協力隊で活動することが何よりも実践的な学びになると考えているからこそ、ゼミ生に協力隊への参加を勧めているのだ。とはいえ、社会経験のない現役大学生がいきなり協力隊に参加することは難しい。

そこで取り組んでいるのが、大阪から鉄道で4時間、バスだと5時間ほどかかる和歌山県すさみ町で、そこに暮らす人たちと共に限界集落が抱える課題を整理し、それを乗り越える手段を考え実践するアクティブラーニングだ。「都会の若者と過疎地域の住民とでは、言葉(方言)も価値観も違うため、同じ日本であっても、ある意味、異文化。協力隊の活動と重なる部分が多いのです」と浅野さん。ここでの活動を足掛かりに、協力隊として途上国に赴いた学生もいれば、地域振興に関心を持ち、活躍の場をすさみ町など日本の過疎地に求める学生もいるという。

土木コンサルタント会社のエンジニアから青年海外協力隊、JICA専門家、そして大学教授と、浅野さんの人生は変化に富んでいる。浅野さん自身は自らの人生を振り返り、「協力隊へ参加していなければ今の人生はなかったし、中学生の頃に抱いた疑問の答えは見つけられなかったかもしれません」と話す。

浅野さんが中学生の時、自宅近くで道路工事をしていた。作業員が測量機器の一種であるトランシットをのぞいているのを見た浅野少年は、「何が見えるんですか?」と聞いたことがあったという。作業員から返ってきたのが「将来が見えるんだよ」という言葉だった。その後、土木の道を志し、土木科の高校に進学した浅野さんは、あの時の作業員の言葉の意味をずっと考えていた。トランシット越しに見える将来とは何だろう。単にからかわれただけだったのだろうか。作業員の表情からそうは思えなかったが、答えは分からなかった。

しかし数十年後、自分なりにこの言葉の意味を見つけることになる。それは、専門家としてケニアに赴任していた浅野さんが、隊員時代を過ごしたマラウイに出張した時のことだ。協力隊の隊員だった当時、自分が測量し設計した道路がどうなっているのか見に行くと、当時はジャングルだった所に道路がきれいに整備されていた。それは、まさに自分がトランシット越しに何度も繰り返し思い描いた道路だった。「将来が見えるというのはこういうことか」。浅野さんにとって協力隊への参加は、人生のターニングポイントになった。

「若いうちに青年海外協力隊に挑戦して人生を豊かなものにしてほしい」

浅野さんは自分自身の経験を踏まえ、これからも学生たちにこう語り掛けていきたいと話している。

(※1)専門家とは、JICAが実施するプロジェクトで、高度な専門性や実務経験を生かして相手国のカウンターパートなどにアドバイスを行うスペシャリストのこと。
(※2)開発途上国・地域等における開発援助の専門知識と活動経験を持つ人材を対象に、JICAが実施する事業の運営管理補佐、コーディネーション業務補佐など、国際協力に関する実務に携わる機会を提供する研修制度(https://www.jica.go.jp/recruit/jrsenmonin/)。

前へ一覧へ次へ