知られざるストーリー

野球を世界に広めたい だから甲子園に行く ~熱血監督の視線の先にある目標~

モーリスが日本にやってきた


おかやま山陽高校野球部監督 堤 尚彦さん

2015年4月、ジンバブエで野球の普及活動を手伝ってくれたモーリス・バンダさんが、おかやま山陽高校教諭で野球部監督を務める堤尚彦(つつみ・なおひこ)さんを訪ねてきた。連絡を取り合ってはいたものの、16年ぶりの再会だ。

「何しに来たの? 観光?」
「あなたたち夫婦のおかげで立派に暮らせていることを報告しに来たんだよ」
「仕事は何を?」
「大学の教員」
「えー!」

堤さんがモーリスさんと出会ったのは1995年、青年海外協力隊の野球隊員としてジンバブエに赴任した時のこと。普及活動のアシスタントを探していた堤さんの依頼を快く受けてくれたのが、当時17歳の専門学校生、モーリスさんだった。

走り続けたジンバブエでの2年間


ジンバブエの子どもたちに野球の楽しさを伝える協力隊時代の堤さん(写真手前)

2017年夏、堤さんはおかやま山陽高校(岡山県浅口市)の野球部を率いて、春夏を通じて初の甲子園、全国高校野球選手権大会への出場を果たした。惜しくも初戦で敗退したが、春の選抜を目指して県大会で鎬(しのぎ)を削っている最中だ。

物心ついた頃から、3歳年上の兄と一緒に野球をしていた。中学校で一時離れたが、小学校、高校は野球漬けの日々を過ごした。野球の強豪、東北福祉大学に入学するも、「ベンチ入りもできないまま引退を迎え、朝から晩まで野球中心の生活が終わってしまう。何かしたいけれど、自分から野球を取ったら何も残らない」と、虚無感に襲われていた。堤さんと青年海外協力隊の接点はそんな大学時代。ジンバブエの初代野球隊員だった村井洋介(むらい・ようすけ)さんを紹介するテレビ番組を見て、その存在を知った。目に飛び込んできたのは、裸足で目をきらきらさせて野球をやっている子どもたち。番組の最後に「道具がない。グラウンドがない。でも、そんなことは問題じゃない。問題は自分の後、教える日本人がいなくなることだ」という村井さんの言葉がテロップで流れた。「世界中に野球を広める」、自分ができることはこれだと思った。

2度目のチャレンジで協力隊に合格し、念願が叶ってジンバブエ第2の都市、ブラワヨに赴任したのは1995年のことだった。野球の普及活動を共に手伝ってくれるアシスタントを探す堤さんは、村井さんから野球を教わった20歳前後の人たちに声をかけた。報酬は出せないと言うと帰って行く人がほとんどの中で、引き受けてくれたのがモーリスさんだった。理由は「野球が好きだから」というシンプルなもの。活動が始まると、彼は普及のためのアイデアを次々と出し、堤さんが配属先であるスポーツ省の担当者と言葉の問題で意思疎通がうまくいかず、こじれて大ごとになりそうになった時も、しっかり支えてくれた。モーリスさんは17歳、野球の師匠とはいえ、堤さんも24歳。活動の方針を巡って大げんかもしたが、二人は2年間、良きパートナーとして活動した。

ジンバブエの子どもたちに野球の楽しさを伝える協力隊時代の堤さん(写真手前)


小学校から始めた普及活動をセカンダリースクール(中学校・高校)に広げ、現場の先生に教えるより効率が良いと思い立ち、大学にも出向いて指導者を養成した。審判員、指導者のライセンス制度の確立、野球協会の設立など、ゼロから始めて2年間、ありとあらゆることに取り組んだ。日本から道具を送ってもらったが、いかんせん量が足りない。そこで野球道具を現地で作ってもらえないかと奔走し、グローブの製造を依頼したある靴屋は、手がかかるその作業を、皮革加工技術を持つ失業中の知り合いに頼んでくれた。

「野球は道具が必要だから貧しい国では広がりにくいと、よくサッカーと比較されるんですが、サッカーはボール1個あればできるけれど、逆にボール1個分しか経済効果はありません。野球を普及させれば、道具が必要になり産業が興り、雇用が生まれるんです」

前任者の村井さんや堤さんの取り組みが評価されて、堤さんの派遣中に野球隊員は5人にまで増えていた。ジンバブエ全国を5地区に分け、1人が1地区を受け持ち、野球の普及活動に汗を流した。

ガーナでモーリスと再会

フル回転の2年間を過ごし1997年に帰国した堤さんは、開発経済学を学ぶため大学院に入学。そろそろ修士論文を書こうかと思っていた時に、外務省からシドニーオリンピックに向けた野球の指導でガーナに行かないかという連絡が入った。「アフリカ大陸野球連盟と外務省、JICAガーナ事務所で検討した結果、あなたの名前が第一候補として挙がった」と言われた。こんな名誉なことはない。大学院を休学して、1999年に青年海外協力隊の短期ボランティアとしてガーナに向かった。ナショナルチームを率いてシドニーオリンピックのアフリカ予選に臨んだが、惜しくも4位となりオリンピック出場は逃した。予選で一度は勝利したものの、決勝トーナメントの3位決定戦でガーナが敗れた相手が、当時20歳のモーリスさんがマネージャーを務めるジンバブエのナショナルチームだった。

聞けば、モーリスさんは今も堤さんの活動を引き継いだ野球隊員のアシスタントをしているという。しかし、2年前と同様、無職であることに変わりはない。彼の将来を考えて、そろそろ就職したらどうかと勧めたが、ジンバブエでは学歴がないと良い職は望めない。「大学で学びたいというモーリスを応援したかった」と堤さん。学費は自分が援助すると申し出て別れた。

10年計画で野球部を再生

晴天の甲子園。夢の大舞台に立ったおかやま山陽高校野球部ナイン

ガーナから帰国した堤さんは、起業したばかりのスポーツマネジメント会社の社長に見込まれ、スポーツビジネスに携わる。ビジネスマンとして活動しながらも、並行してアジア野球連盟の要請で、アジアの国々で野球の指導に当たるなど、野球を世界に普及する活動を続けていた。

2006年、当時担当していたプロゴルファーの諸見里しのぶ選手の出身校、おかやま山陽高校から野球部監督就任の打診があった。「世界に野球を広める」というミッションから少し離れることにはなるが、「野球を通じた人づくり」に取り組みたいと思い始めていたこともあり、6年半のビジネスマン生活に別れを告げ、高校教師となった。

同校野球部は前任の監督が辞任し、立て直しを迫られている難しい時期だった。堤さんが着任した年に入部してきた部員は、わずか3人。グラウンドには草が生え荒れていた。野球部副部長と話し合い、「10年以内に甲子園に出場する」「プロ野球選手を輩出する」「部員を100人にする」という目標を掲げた。

野球の強豪校を目指すには、優秀な選手をスカウトしてくるのが近道だ。最初は堤さんも県外の選手をスカウトしてきていた。ところが、ある年の春の選抜に出場した高校の様子を見て考えが変わった。その高校の野球部は、県外出身の生徒も何人かいたものの、地元の生徒がほとんどで、町がからっぽになるくらい大勢の人が甲子園に駆けつけたのだった。素直にうらやましいと思った。学校は地域のもの、地元の子が入りたいと思うようなチームにしようと、4年かけて地元出身選手のチームに切り替えた。2014年春の県大会でベスト4に進出すると、その年のドラフトでピッチャーの藤井皓哉(ふじい・こうや)選手が広島東洋カープの指名を受け入団。ついにプロ野球選手が誕生した。藤井選手は2017年9月30日に一軍デビューを果たした。その時たまたま堤さんが居合わせた地元の焼鳥屋には、中継を見ながら歓声を上げる人たちの姿があったという。そして2017年夏には甲子園出場も果たし、部員の数も91人にまで増えた。

「甲子園出場は10年じゃなく11年かかったけど、3つの目標はほぼ達成できたかな」

自分はピエロでいい

「世界の笑顔のために」プログラムを通じて途上国の子どもたちに送るために集められた中古の野球道具

おかやま山陽高校の野球部は、2011年からJICAの「世界の笑顔のために」プログラムを通じて、中古の野球道具を開発途上国に送る活動を続けている。その理由は、生徒たちに世界を知ってほしいからだという。

「特にスポーツコースの子どもたちは、競技をするために来ているので、どうしても視野が狭くなってしまいがちです。だからといって、勉強しなさいと頭ごなしに言っても効果はありません。野球を一生懸命、深く広くやりたいのであれば、野球の延長線上でもっといろいろ知っておいた方がいい。道具を送ることはその国を知るきっかけや、野球の歴史の勉強にも、英語の勉強にもなるだろう」

実は中古の野球道具を途上国に送ることで「野球を世界に広める」というテーマと、「試合に勝つ」「甲子園に行く」というテーマをどう結びつけられるか、しばらくの間、自分の中で葛藤があったという。ところがある日、「道具を送る活動をもっと広く知ってもらうために甲子園に行く」と考えたら、これまで胸につかえていたものがストンと落ちた。実際に、今夏甲子園に出場を果たし、中古の野球道具を集めているという話が新聞に掲載されると、これまではぽつりぽつりとしか集まらなかった道具が、箱詰めされて宅配便で大量に届くようになった。

野球用具を手にし「笑顔」を見せるスリランカの選手たち

「自分はピエロ。甲子園や野球道具集めは世界の現状を知ってもらうための手段です。道具を送る活動を通じて途上国に興味を持って、何か支援をしようという人が出てくるかもしれません」
「プロが向いている子はプロに行けばいいし、指導者になるのもいい。自分が昔やっていたスポーツエージェントのような仕事に就くのもいいし、協力隊に行くのもいい」

野球で協力隊に行きたいという人や野球隊員として派遣が決まった人が、全国から訪ねてくる。堤さんは自宅に一泊させて話を聞くという。今年、おかやま山陽高校の教え子が協力隊の選考試験に挑戦する。堤さんは「もしかしたら」と期待を寄せる。

2年後は再びジンバブエに

2015年に日本で再会を果たした二人。モーリスさんは滞在していた4週間、堤さんの家で家族同然に過ごした

モーリスさんは、堤さんの支援もあって、南アフリカの名門体育大学を含め、3つの大学を卒業していた。現在はジンバブエの体育大学の准教授の職を得たほか、ジンバブエ野球連盟の会長も務めている。堤さんを訪ね日本に滞在していた時も、持参したノートパソコンやスマートフォンを駆使して忙しそうに仕事をしていたという。その時、モーリスさんはこんなことを堤さんに切り出した。

「東京オリンピックのアフリカ予選にジンバブエのコーチとして参加してほしい」

2019年に始まるアフリカ予選。冗談かと思ったが、翌日モーリスさんは、おかやま山陽高校の校長に「予選の期間中、堤先生を借りたいのですが」と申し出て、了解を取り付けた。堤さんの目下の悩みは、甲子園と重なったらどうしようということ。

「ゼロから1にするのは得意です。しかし1から2にするのはまったくだめ。飽きてしまうんです。だから、実は甲子園に出場したら飽きるんじゃないかと思った。そうしたら1回戦で負けたじゃないですか。飽きるどころじゃない、ものすごく悔しいんです。こりゃ定年まで挑戦かな」

「東京オリンピック」「甲子園」と、野球の神様は、まだまだ堤さんを離してくれそうにない。


※このインタビューは2017年10月に行われたものです。

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