JICA関西センター物語(5) -さらなるパートナーシップ発展のために- 「震災の時」

2023年1月17日

今から28年前、神戸市とその周辺地域を大地震が襲い、甚大な被害が発生しました。横谷貴美絵さん。のちに「阪神・淡路大震災」と命名されたこの未曾有の災害を、兵庫インターナショナルセンター(JICA関西センターの前身)の研修担当者として体験しました。
横谷さんは2020年にJICAを退職されていますが、在職中の2014年にその時の経験をJICAのウェブサイトに掲載しています。震災直後とその後のセンターの様子や、震災によって大きな影響を受けた研修員たち、そしてセンターのスタッフや周辺の住民が受けた被害の大きさが描かれています。今回はその時の記事を再掲載させていただきます。
(注)文章は作成当時のものです。

JICA関西 地域連携アドバイザー
徳橋和彦

【阪神・淡路大震災20年 復興の経験を世界と共に】1 阪神淡路大震災と旧JICA兵庫インターナショナルセンター(神戸市須磨区一の谷)

JICA関西センター職員 横谷貴美絵(注1)

2014年12月26日

1.阪神淡路大震災発生直後

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JICA関西センター 横谷貴美絵職員

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旧兵庫インターナショナルセンターの全景(震災前)

阪神淡路大震災が発生した1995年1月17日は、国際協力事業団(JICA)の兵庫インターナショナルセンター(注2)(以下、兵庫センター)所管2コースの研修員は、当時大阪府茨木市にあったJICA大阪国際センター(以下、大阪センター)での手続き説明、日本の社会・教育・文化等を学ぶジェネラルオリエンテーションを含む1週間の日程を終え、兵庫へ移動する予定日でした。兵庫センターは当時、源平合戦の一ノ谷古戦場として知られる神戸市須磨区一ノ谷町の鉢伏山中腹に位置していました。

兵庫センターは須磨浦公園の敷地内の強い岩盤の上に建設されていたためか、午前5時46分に兵庫県を襲った大震災による被害は、幸いにも外壁が1m四方剥がれ落ちたことと室内の家具や事務用機材の落下程度で済みました。直後に兵庫センターを訪れたスタッフによれば、事務室内のコピー機が斜めに40cmほど向きを変えて移動していたことに驚いたそうです。

その日、JICA個別コース研修員2名と兵庫県招聘の16名の合計18名の研修員が滞在していましたが、日ごろ元気な研修員も余震を恐れて怯えていたと聞いています。館内の食堂には外部パーティ用のサンドイッチ等の食材があり、料理担当チーフが気前よく提供してくれたのは、研修員らにとって幸運であったと思います。

2.兵庫センターが受けた緊急援助、そして避難所に

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兵庫センター近く、半壊した住宅(中央)

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旧兵庫インターナショナルセンターは現在、更地に

兵庫センターの所長の要請を受け、当時の大阪センターのスタッフが緊急ステッカーを貼り付けた車輛で神戸に向かい、往復24時間以上かけてJICA及び兵庫県の研修員を大阪センターへ移送しました。研修コースの中止により、すでに来日していた兵庫センターの所管コースの研修員たちは大阪センターに足止めとなりました。彼らは結局、日本語講習等を受けたのち、帰国の途につきました。翌年に再度同じ研修に参加できた人もあれば、二度と日本を訪れる機会がなかった人もいます。

震災発生1週間後の1月25日には、スタッフはそれぞれの自宅から通勤できることになりましたが、通勤手段であるJRや山陽電鉄は寸断されていたため、阪神間に住むスタッフの中には、通勤のために北回りで往復6時間を要する人もいました。私自身も自宅を7時に出発、10時に兵庫センターに到着し15時まで執務し、帰宅するという生活が2~3週間続きました。JR須磨から山陽電鉄の乗り換え、西隣の須磨浦公園で下車するという通勤経路でしたが、山陽電鉄の復旧までは、JR須磨から兵庫センターまで須磨浦公園を横切り、徒歩で30分要しました。須磨浦公園内の球体像が台座から落下し、そのまま放置されていたことや、高架線路の盛土が地震で崩れていたため、見上げると枕木の間から青空が見えていたことをはっきりと覚えています。歩道は波状にうねっており、足を挫きかねないため、注意深く歩いたものです。

震災発生後、兵庫センターは被災者のための避難所となり、研修員用の客室は被災家族の住居となりました。ロビーにはうず高く救援物資が積上げられ、野外では豚汁などが被災者に振る舞われていました。韓国からの救援物資の即席麺の箱が多く積まれていたことが、なぜか印象に残っています。電気は復旧していましたが、ガスと水道はまだ復旧に至ってはいなかったため暖房使用ができず、真冬の寒さを避けるため、スタッフは厚いオーバーコートを身に着け、帽子・手袋・マスク着用で執務していました。当然、自宅から水筒にお茶を入れ、昼食も持参したものです。またトイレ利用のたびに地下の貯水場所から水を汲み上げてはトイレに流さなくてはなりませんでした。

3.兵庫センターで出会った人々、そしてJICA研修員

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須磨浦公園から望む、瀬戸内海の夕焼け。昔も今も変わらない光景

兵庫センターの近隣住宅は全壊・半壊の被害に見舞われ、失意のうちに当地を去っていく隣人も少なくありませんでした。兵庫センターに飲料販売に来ていた近所の婦人が、自宅が全壊したため実家に引っ越すとのことで挨拶に来られたものの、涙が溢れ何も言えず寂しく去っていかれたこともありました。兵庫センターの清掃を担当されていた受託会社のスタッフは、長田区で被災され、後に続く火事で友人を失い、助けることができなかった自分を責めておられました。災害を乗り越え、無事会えることの幸福を感謝しつつも生き残ったことに引け目を感じている人々の存在にはショックを受けました。

被災家族の避難所としての兵庫センターの役割は4月末まで続きました。その間、3月には復旧のための建設業者の宿舎になりました。さらに4月には、ガス復旧のために活躍したガス会社の技術スタッフの宿舎としても役割を果たしました。兵庫センターのスタッフにとって、いつ研修を復活できるのか、海外からの研修員の明るい声を聞ける日が来るのだろうかと不安ばかりの4カ月が過ぎ、JICA研修員の声がセンターに響くようになったのは、5月連休明けでした。

震災発生後にかかってきた帰国研修員からの多くの励ましの電話には感激しました。また、途上国を含む世界各国からの救援物資が日本に届いたことに、援助する側はいつでも援助される側にもなりうることを実感しました。(終)

(注1)横谷職員は当時、JICE研修監理員としてJICA兵庫インターナショナルセンターに勤務。
(注2)JICA兵庫インターナショナルセンターは、現JICA関西の前身。震災発生当時は、神戸市須磨区の須磨浦公園内に所在。その後、2001年に現在の神戸市中央区脇浜海岸通に移転。2012年に旧JICA大阪と統合し、現在のJICA関西となる。

上記(注2)に関する補足:須磨区から中央区への移転が始まったのは2001年9月。最初は総務課のみ移転。須磨区のセンターを引き払い、全ての移転が完了したのは同年12月。なお新センターの正式な開所は式典も開催された2002年4月としている。