JICA関西センター物語(14) -さらなるパートナーシップ発展のために- 「震災と大阪国際センター(上)」

2024年2月29日

今年、2024年の元日、能登半島地震が発生しました。亡くなられた方へ哀悼の意を捧げるとともに、被災された方にお見舞い申し上げます。

毎年、新年を迎える時期は新たな希望に満ちた清々しい気持ちになります。しかしその一方で思い出されるのがここ関西センターのある兵庫県を中心に大きな被害をもたらした阪神・淡路大震災です。1995年1月17日に発生したこの地震では6,434人の方が亡くなり、ピーク時には31万人を超える方々が施設に避難されました1。また、2011年3月11日には東日本大震災が発生し、甚大な被害が生じました。春が訪れる前の凍えるような時期になると、たくさんの地震による被害とその後の避難生活を送られた方のことを思い出します。

先の号で紹介した通り、2012年4月、大阪国際センターは閉鎖され、兵庫国際センターと統合し、兵庫国際センターのある神戸市において「関西国際センター(現在の関西センター)」として関西二府四県を所管するセンターに組織改編されました。
この組織改編の前年に発生したのが東日本大震災でした。この未曾有の大災害を受け、当時の大阪国際センターでは予想されていなかった役割を担うことになります。
今回と次回は、その時に大阪国際センターが担った役割について、その背景となった東日本大震災の発生当時の福島県二本松市にある「二本松青年海外協力隊訓練所」(以下、「JICA二本松」)の様子も含めて紹介させていただきます。


1 内閣府「防災情報のページ」より。その他、東日本大震災及び阪神淡路大震災の被害状況に関する数値も同様。(2024年2月時点)

東日本大震災の発生

JICA海外協力隊2の選考に合格した隊員の候補者が、それぞれの任国に派遣される前に訓練を受けるところが訓練所で、国内に二ヶ所あります。一つが長野県駒ケ根市にある「駒ケ根青年海外協力隊訓練所」(以下、「JICA駒ケ根」)、そしてもう一つがJICA二本松です。二つの訓練所で年間約1,000人の候補者が派遣中の任地で必要な知識や習慣、現地の言葉などを習得し、隊員として派遣されていきます。

2011年3月11日金曜日。三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震はJICA二本松にも大きな被害をもたらしました。
当時、JICA二本松に勤務していた職員のお話です。

「あの日はちょうど2010年度4次隊3の訓練の最終日でした。修了式が終わり、晴れて候補者から隊員となった145人をバスで送り出し、一息つくことができました。
そのあとに開催された語学講師4との会議でのことです。出席していた人たちの携帯電話がいっせいに鳴り出しました。画面を見ると、『宮城県沖で強い地震発生』との表示。「へぇ」っと思ってしばらくしたら激しい揺れに見舞われました。立っていられないほどの激しい揺れで、会議室の天井が落ちてくるのではないかと思いました。皆、机の下に隠れました。スワヒリ語の講師であるタンザニア人女性が動転し、窓から逃げようとするのを呼び止めて連れ戻しました。候補者を見送った後であったこともあり、訓練所内でケガをした人がいなかったのは幸いでした」。

今もこの訓練所で働く別のスタッフのお話です。

「道路には大きなひび割れが生じました。教室、執務室などの家具備品は倒れ、図書室の書籍も散乱。鉢植えなども落下し、破損もおびただしい状況でした。震災から十年以上経った今でも高いところに物を置いていません」。

修了式を終え帰路についた隊員たちは、その途中で被災しました。JR郡山駅や福島駅に向かっていた電車が止まってしまった方、またバスで移動中に東北自動車道が閉鎖になってしまった方の中には、徒歩で避難された方も多くいました。

JICA二本松では彼らの安全確保のため、郡山駅などで立ち往生していた隊員たちの約半数をマイクロバスなどでピストン輸送し、訓練所に戻ってもらいました。その後、民間のバス会社の協力も得て、全員が帰宅するまでに数日を要しました。


2 開発途上国からの要請(ニーズ)に基づいて、それに見合った技術・知識・経験を持ち、「開発途上国の人々のために生かしたい」と望む方を募集し、選考、訓練を経て派遣する、日本政府のODA(政府開発援助)予算により実施されるJICAの事業。(JICAホームページより。)
3 訓練所は、協力隊の派遣時期に合わせ、年4回訓練を行っている。
4 訓練プログラムの約6割が語学訓練。外国語を母国語とする外国人も講師を務めている。JICA二本松では、英語、仏語の他、モンゴル語、インドネシア語、マレー語、ラオ語、クメール語などの語学クラスもある。

避難所となった訓練所

建物自体の損傷は少なかったJICA二本松は、福島県からの要請を受けて避難所となりました。福島第一原子力発電所付近の避難指示を受けた住民の方々などを3月13日から受入れ、訓練所の講堂と宿泊棟で最大約450人の方々が避難生活を送りました。仮設住宅や次の場所へ移られる前のいわゆる「一次避難所」として7月末までの4ヶ月半、使用されたのです。なお、滋賀県は福島県への応援職員として延べ約330名を派遣。内、約60名をJICA二本松に派遣していました。

最長で4ヶ月あまりにわたる避難所生活5。合宿形式の訓練所として作られた施設とはいえ、長期間に及ぶ避難所生活は、当事者でなければ想像できないような大変な苦労があり、避難所を出てからの生活もなかなか定まらず、不安な気持ちを抱いていた方も多かったとのことです。
そのような中、JICA二本松にはさまざまな方が支援に訪れました。温かい地元の郷土料理や手作りケーキを本格コーヒーと一緒にお持ちになられる方、散髪やマッサージなどのサービスを提供される方など。また、著名な方がお忍びで炊き出しに協力下さったこともあったとのことです。さらに子ども達に勉強を教えたり、遊び相手になってくださった方たちも喜ばれたようです。
避難生活ではストレス解消も重要です。プロ、アマ多くのスポーツ選手、音楽家、芸術家が訪問、もしくはリモートで指導され、皆さんの心を癒されていました。
また、JICAの施設らしく、JICA二本松の廊下には、日本だけではなく、世界各国から寄せられた応援メッセージがたくさん貼り出されていたそうです。

避難所では避難されている方々自らが組織された住民自治会がありました。そこでは炊き出しやシャワーの運営方法、ペットの取り扱いのルールなど、日常的な問題を皆さんで決めていたそうです。JICAは施設の管理運営だけではなく、福島県や二本松市、協力していた滋賀県の職員の方と共にコーディネーターという立場で支援も行っていました6。また、当時、情勢不安のために中東や西アフリカから日本に避難一時帰国していた、看護師、保育士、理学療法士、作業療法士などの職種の協力隊員たちも、JICA二本松でボランティア活動をしました。
このような避難されている方に寄り添った活動に加え、JICA二本松には他の人たちと一緒に食事ができる広い食堂があり、さらに個室での生活ができるため、避難所としては恵まれていると言われていたそうです。


5 避難所として活用されていた期間の様子はかつて滋賀県のHPに掲載されていた内容を参考とさせていただいた。
6 JICAでは東京本部からも応援職員を派遣。3月17日から現地入りした。基本的には県や市の避難所運営を補佐する体制だったが、行政の人手が不足していた震災直後は、JICA職員も被災者の受入れや外部からの安否確認の問い合わせなど24時間体制で対応した。

ライラックの記念樹

JICA二本松の玄関前の植え込みにはライラック(英語名。仏語ではリラ、日本語では紫丁香花(ムラサキハシドイ)。)の樹が植えられています。その前には「感謝 旅立ち」と記された木製の看板があります。これは避難された方たちがお金を出し合って植樹されたものです。皆さんが訓練所のスタッフだけではく、福島県や滋賀県からの支援者、お世話になった地元の人たち、さらに避難者同士への感謝の気持ちが託されていたものです。ライラックの花言葉は「出会いの喜び、友情」。避難生活という中でありながらも、その出会い、生活を通してできた友情をこれからも大切にしていこうという避難民の方たちの思いも込められているそうです。
この看板の木材は南相馬市から避難されている方が、南相馬市で津波の被害にあった家屋の一部を加工して持って来てくださったものです。残念ながら看板は長年の風雨に晒され、かなり劣化してしまいました。またライラックの樹もかなり弱ってしまっているとのことです。
震災から時が過ぎた今でも、避難生活を送られた方がJICA二本松を訪れて当時の話をしてくださることがあるそうです。

【画像】

(避難されていた方たちが植えられたライラックの樹と看板。「感謝 旅立ち」の他、地震発生時刻の「2011.3.11.14.46」と「JICA避難者一同」という文字も刻まれている。(2023年4月、元JICA二本松所長 水谷恭二氏撮影)

一方で、訓練所では協力隊候補者の訓練を行わなければなりません。JICA駒ケ根でJICA二本松の候補者まで受け入れてまとめて訓練することはとてもできません。そこで活用されることになったのが大阪国際センターです。次回は大阪国際センターでの訓練の様子をお伝えします。

JICA関西 地域連携アドバイザー
徳橋和彦