「バングラデシュ発展の新たな節目」となる事業
2013年の第一期円借款契約締結から10年近い計画・建設工事を経て、バングラデシュ初となる都市高速鉄道(Mass Rapid Transit : MRT)、ダッカメトロ6号線が、2022年12月28日、ようやく部分開業の日を迎えた。首都ダッカで開催された記念式典には、バングラデシュ政府からハシナ首相、カデール道路交通橋梁大臣、ヌリ道路交通局次官といった錚々たるメンバーが顔をそろえ、バングラデシュ政府のMRTに対する期待がいかに大きなものであるかをうかがわせるものだったと言えるだろう。ハシナ首相は式典におけるスピーチの中で、日本の協力に対する感謝を表明すると同時に、ダッカメトロの開業が「バングラデシュ発展の新たな節目となる」と述べ、首相を含む主要参加者が、ウットラ北駅から部分開業区間の終点であるアガルガオン駅まで乗車した。そして翌29日からは、いよいよ一般乗客の利用もスタートしたが、早朝から各駅には長蛇の列ができ、まさに、バングラデシュ発展の“新たな節目”を、国民に強く印象付けたことは間違いない。
2022年12月28に開催された開業式典の様子。
吉田啓史
「このMRT6号線開発計画自体は、2005年に世界銀行が策定したマスタープランに基づいてスタートしたものでしたが、“大都市の中を毎日数分間隔で走る電車”という概念がそもそも無かった国において、線路を敷く、駅舎を造るといったハード面だけでなく、法制度や技術基準、安全な運行体制といった仕組み面を含め、日本の協力があればこれだけのものを造ることができる……それが、バングラデシュにとっても大きな自信になっていったのだと思います。現在進められているダッカのMRT開発計画は、2016年にJICAの協力によって策定された『改定版ダッカ都市交通戦略計画』というマスタープランに準拠して推進されていますが、バングラデシュと日本/JICAの協力関係が深化していくにつれて、ダッカメトロ開発計画全体が拡張されていったという経緯があります」
このように説明してくれるのは、南アジア部南アジア第四課で、バングラデシュに対する協力事業の総括的立場を担っている吉田啓史。吉田は2020年に現部署に異動しダッカメトロを担当するようになったが、2013年〜16年のインド駐在中にも、デリー、ムンバイ、アーメダバードといった複数の都市におけるMRT開発事業に携わった経験を持ち、言わば、交通インフラ、円借款事業のスペシャリストと呼んでも差し支えないだろう。
読者の皆さんは、ここまでの短い記述の中にも、長い時間の流れが圧縮されていることに気づかれていることだろう。大規模なインフラ開発事業は、十年超に及ぶ長い期間を要するものも少なくなく、 当然そうした案件は一人の担当者によって完結することはない。“人と国の未来を創る”という想い、それを“たすき”としてつなぎながら重ねられる、JICA担当者たちのひたむきな仕事の連鎖によって築かれるビッグプロジェクト……その一つの断面を、ダッカメトロを素材としてレポートしてみよう。
世界最悪の交通渋滞と環境悪化を解消するために
日本の4割ほどの国土におよそ1億6千万人が暮らすバングラデシュの首都、ダッカは、世界有数の人口稠密都市である。ダッカの人口は、1990年から2021年にかけて662万人から2,174万人にまで増加しており(世界銀行、2023)、急激な経済成長を背景に交通量も増大。道路には自動車、バイク、リキシャ(自転車タクシー)が溢れ、交通渋滞は世界最悪のレベルであると言われる。混雑時のダッカにおける自動車の平均時速は6.4キロとされるが、これは、東京都心部の倍以上時間がかかる見当になり、渋滞による経済損失は年間数十億ドルに上るという試算も示されている(世界銀行、2018)。また、激しい交通渋滞は当然ながら環境悪化も招き、ダッカの大気中PM10(微粒子状物質)濃度はWHO(世界保健機構)が規定する環境基準を大幅に上回り、住民の健康被害への懸念も高まっている。ダッカの深刻な交通渋滞は、都市環境を悪化させると同時に、経済社会発展の大きなボトルネックになっているのだ。
こうした状況を打開し更なるバングラデシュの発展を促していくために、鉄道を軸にした大規模な公共交通網を整備していくこと……それを提言したのが、2016年にJICAの協力によって策定されたマスタープラン「改定版ダッカ都市交通戦略計画」である。ここでは、5路線の都市高速鉄道(MRT/ダッカメトロ)と2路線のバス高速輸送システム(Bus Rapid Transit : BRT)の導入、建設が提起されているが、このうちMRT6号線は、先に触れた通り既に部分開業を迎え、2025年12月に全線開通の予定。続いて実現に向けて動き始めているのが、1号線、5号線(北路線)である。2016年には、この事業化に向けた調査に従事していた7名の関係者が犠牲となる痛ましいテロ事件が発生したが(※注1)、その後、安全対策を強化した上で協力は継続され、それぞれ2028年、2029年の完工に向け、建設計画、入札等の準備が進められている。最も先行する6号線はダッカ中心部を南北に縦断する高架鉄道、1号線はバングラデシュ初の地下鉄となり、これは6号線と並行するように南北に走り、5号線は、1・6号線とつながりダッカを東西に横断する地下鉄である。総事業費の規模は、この3路線だけで1兆円を優に超える壮大な規模の交通インフラ開発。まさに、国家開発そのものに深く関与していくJICAの姿が見て取れるだろう。
建設中のウットラ中央駅。バングラデシュ国旗の色が配された外観デザインになっている。
このマスタープランを踏まえて、バングラデシュ政府が策定した「第8次五カ年計画」(2020/21〜2024/25年度)では、“貧困層にも裨益する包摂的な経済成長”が目標として掲げられ、それを目指すための重要な施策として“交通渋滞の抑制”、“将来需要対応のための輸送・交通インフラの改善”、“バランスのとれた都市交通システム構築”等が示されているが、2026年には“後発開発途上国”を脱することを既に射程に入れたバングラデシュにとって、MRT/ダッカメトロ開発が、次の発展段階を目指すうえでの大きなステップボードとなることは間違いないだろう。
「私が現部署に着任した2020年の段階では、6号線の建設がちょうど佳境を迎えている状況で、あと1〜2年で工事も完了するだろうというところまで来ていました。1号線、5号線(北路線)については、円借款で支援すること自体は決定していましたが、設計を行っている段階で、建設工事の発注先も未定。そうした状況でこのプロジェクトを担当するようになったわけです」
先に紹介した吉田は、自らがダッカメトロに関わるようになった当時をこのように振り返る。コロナ禍の中で現地への出張もままならないなか、マスタープランや各路線の事業計画の内容を子細に検討していた吉田は、既に動き始めている6号線の開発計画が大きな問題を抱えていること気づく。ここから、先人達の“たすき”を受け継いだ吉田の、新たなチャレンジが始まることになる。
※注1:2016年7月1日にダッカ市内でテロ事件が発生し、日本人7名を含む複数の外国人が犠牲となった。犠牲者の日本人7名は、JICAが実施したダッカ都市交通整備事業協力準備調査に従事していた方々である。このため、MRT6号線車両基地内に慰霊碑が設置され、毎年慰霊式典が開催されており、2022年には、田中理事長、カデール道路運輸・橋梁大臣をはじめとする日本・バングラデシュ両国の関係者が参列。また、冒頭のMRT6号線の部分開業式典でも、ハシナ首相はテロ事件を決して忘れず、犠牲者を慰霊するといった声明を発表している。
国民に本当に愛される都市鉄道を生み出すために
このMRT6号線は、ダッカ中心部を南北に縦断する路線であることは先に紹介したが、南側の終点として設定されていたのはモティジール駅で、その1kmほど先にある都市間輸送を担う国鉄のターミナル、カマルプール駅には接続しない設計になっていた。何故こんなことになったのだろうか?
「東京の路線に喩えるなら、地下鉄・丸ノ内線が東京駅には接続せず、銀座で停まってしまっているという感じでしょうか。先にもお話ししたように、この6号線だけが、JICAが主導してまとめた2016年のマスタープランの前から計画が動き始めていたもので、その段階では、ダッカに複数のMRTを建設し、広範囲な鉄道ネットワークを造るという発想が希薄だったのだろうと思います。また、カマルプール駅の周辺は古い街並みで、高層の集合住宅がひしめき合っていることもあり、高架鉄道として計画されている6号線としては着手するのが難しいエリアであったことは間違いありません。そうしたこともあって、先輩達も問題があることは承知したうえで、先ずMRTの開発に着手することを優先したのではないでしょうか」
しかし、このまま放置しておけば、バングラデシュにとってかけがえのない資産となるダッカメトロの将来に大きな瑕疵を残してしまうことは明らかだろう。故郷に帰るためにメトロに乗った乗客が、モティジール駅からカマルプール駅まで1kmの道程を、大きなバッグを抱えて歩かなければならない……せっかく大規模な円借款を投入して開発されるダッカメトロは、バングラデシュ国民、ダッカ市民にとって、本当に愛される鉄道にならなければならない。
「計画を修正するなら今しかないと考えました。バングラデシュ政府も、都市鉄道というのは経験したことがないので、この1kmがつながっていないことの“不便さ”に対してあまり大きな認識を持っていない。ですから、現地に駐在する同僚の協力を得ながら、コンサルタントの方と6号線延伸計画を練り、バングラデシュ政府、日本政府と協議を進めていくことになったわけです。もちろん、既に完成しかかっている計画を何故修正する必要があるのか? この延伸は本当に必要なのかということはさまざま方面から問われました。円借款としても、100億円超の追加が必要になってくる。しかし、せっかく1兆円を超える事業費を投入して開発されるダッカメトロが、バングラデシュ国民にとって使いづらいものになってしまうのでは本当にもったいない。そこのところを、バングラデシュの関係省庁、日本政府と膝詰めで協議し、最終的には、バングラデシュ側ではハシナ首相直々の決断もあって、事業計画修正にこぎつけました。
また、カマルプール駅周辺は住宅が密集するエリアでもあり、住民の方々の住居移転、生計の維持を始めとするケアは、延伸計画における最も重要なポイントでもありました。私は以前審査部に在籍していた際、インフラ開発等における環境社会配慮(※注2)の審査に携わったこともありましたが、日本との協力事業として後世にも誇れるように環境社会配慮への視点を持ったうえで住民の方々への丁寧な説明をしていただくことは、延伸計画における最も重要なポイントとして、バングラデシュ政府に対して繰り返し要請したことでもありました」
こうして、バングラデシュにとって初めての都市鉄道となるMRT6号線開発計画は完成を迎えることになる。2022年12月、ダッカの高架上を疾走する車両を目撃して歓喜の声をあげる市民の喜びは、このようなJICA職員の努力のうえに築かれたものであることを、忘れてはならないだろう。
※注2:環境社会配慮……開発事業がもたらす可能性のある負の側面〜環境や生態系、地域住民への悪影響等〜をできる限り回避、緩和するという考え方。JICAでは、環境社会配慮に関する厳密なガイドラインを設定しており、協力する事業についてこのガイドラインに沿って審査している。
社会への説明責任を果たすために、求められるもの
ダッカメトロの長いプロジェクト・ヒストリーの中で、現時点で最も若い担当者が2022年入構の中浩太郎である。吉田と同じく南アジア部南アジア第四課に所属する中は、MRT1号線、5号線(北路線)を担当することになったが、配属後間もない2022年6月には、1,334億円に上る5号線第二期円借款契約の締結という一大イベントが控えていた。
「いきなりダッカMRTの担当になって、しかも1,300億円を超える円借款契約の最後の詰めの部分を任された時はびっくりしましたね。それこそ、円借款とは何かということも良く理解できていないところがありましたから……。以前、台湾で暮らしたことがあるのですが、台湾には日本の新幹線技術を導入して造った台湾新幹線が走っていて、それを間近に見ていたこともあって、日本の技術を使い途上国において交通インフラを造ってみたいという希望を持っていました。ですから希望通りの配属でしたが、いきなりこのスケールだったので、正直に言えば少し焦ったところはありました。ですが、何とか追いついていけるよう必死に勉強しました。
中浩太郎
私が担当した作業は円借款契約の“最終化”の部分になりますが、やはり税金を原資とする事業ですから、一つひとつの手続きを確実に、高い透明性を保って実行していくことが求められます。また文書を作成していくうえでは、なぜこの事業に1,300億円の円借款を出すことをJICAとして決定したのかといったことを、確実なエビデンスを示し、一貫した論理構成の中で示していかなければなりません。この過程では、吉田さんには随分指導していただきました。吉田さんに文書をチェックしてもらうと、ここは論理が通っていない、このエビデンスは何かと、厳しい指摘がどんどん返ってくる。このプロセスは自分としては本当に鍛えられるものだったと思います。JICAの事業においては、社会に対する説明責任をしっかりと果たしていかなければならないのだということを痛切に感じましたし、そのためには、論理性や情報収集能力、コミュニケーション能力といったものが求められる。そのあたりを含め、自己研鑽に努めていかなければならないと感じています。
円借款契約の調印式はダッカで行われましたが、私が担当した文書が理事長まで上がって決裁され、その文書が現地に行ってJICA現地事務所長とバングラデシュ政府高官が署名し、1,300億円に上る資金が使われてダッカメトロが建設される……。私自身もオンラインで調印式に参加し、このビッグプロジェクトに自分が関われているのだという実感に、胸が熱くなるものがありました」
中の“壁打ち”相手を務めた吉田は、次のように補足する、
「彼には最初から大変な仕事を担当してもらいましたが、我々JICA職員として見るべきポイント、重視すべきことは何かということを、早い段階から体験的に学んで欲しいと考えていました。我々が手掛けるのは二国間協力ですから、相手国のためになると同時に日本のためにもなる、そうしたWin-Winの事業を作り上げなければなりません。例えば、環境社会配慮的な側面も含め、さまざまな観点から注意深く検討を重ねて、なぜこの事業をやるのかということを、誰に対してもしっかりと説明できるようにしていく……そうした、JICA職員としてこれから仕事をしていくうえで、考えておくべきポイントを学んでもらうには、とてもいい機会だろうと考えたのです」
こうした現場における奮闘を通じて獲得される、知識だけに留まらない姿勢、視点、価値観。それらが蓄積されていくことによって、ビッグプロジェクトを推進していく確かな“力”が育まれていくのだろう。
国創りへの想いがこめられた“たすき”をつなぐ
ダッカメトロ6号線は、車両の製造や駅舎建設、信号や改札システム等の機材供給を日本企業が手掛け、SuicaやPASMOと同様の非接触型ICカード技術が乗車券システムとして導入されるなど、まさにオールジャパンの技術の粋が投入された最新鋭の都市交通システムとして、バングラデシュ国民にお披露目された。また、こうしたハード面のみならず、混雑時における女性専用車両の導入、車両及び駅構内への監視カメラの設置といった、女性が安心して利用できる仕組み、設備の導入、車椅子の乗客のための乗車スペースの設置といった、日本において培われたソフト面のノウハウも随所に導入されており、日本/JICAならではの協力として、高い付加価値を持つものになっていることも大きな特徴だろう。
車内に設置されている車椅子の利用者のためのスペース
加えて、ダッカメトロを運営するダッカ都市交通会社(DMTCL)においては、女性の雇用促進等を含んだジェンダーアクションプランを策定しており、日本のメディアでも話題になったバングラデシュ初の女性運転士が日々の運行業務を担うなど、ジェンダー平等実現を目指す試みに、この新しい都市交通を担う組織が率先して取り組むことには、大きな意味があるだろう。そして、ダッカメトロがもたらす社会変革の可能性は、決してDMTCL内だけに留まるものではない。JICAの協力によって先行してMRTの開発が進んだインドにおいては、安心・安全な交通手段が生まれたことによって、女性の就労機会が開かれ、社会参加の割合も高まったという調査報告もあるように、イスラム教国であるバングラデシュにおいては、MRTの普及がもたらす社会へのインパクトは、インド以上のものになっていくかもしれない。交通渋滞、大気汚染の解消という喫緊の社会課題へのアプローチからスタートしたダッカメトロ開発は、ダッカの人々の生活を変え、未来を築く、大きな社会変革をもたらす可能性を持った事業へと発展してきていると言えるだろう。
バングラデシュ初の女性運転士
「今、ようやく部分開業に漕ぎ着けたところですが、事業が全て完成したときに人々の生活がどのように変わっているのか、それを見るのが今から本当に楽しみです。運輸交通インフラの開発は、初期の投資コストも莫大ですから、途上国にとってはなかなか自分たちだけでは手をつけられない、決断しづらいというところがあります。それを、JICAの協力によって形にし、実現に向けた道筋を描いていくというのは、開発協力における一つの醍醐味なのではないかと考えています」(吉田)
「ただ鉄道を造るというだけなら、他のドナーを含めさまざまなところが手掛けることができると思いますが、社会的に脆弱な方たちにも配慮した本当に付加価値の高いインフラを造るということが、日本/JICAの協力の強みなのだと日々感じています。JICA内外問わず、さまざまな国籍・バックグラウンドを持った人たちが一つになって、大気汚染、交通渋滞といったダッカの課題を解決するためにプロジェクトに取り組む……今、私がその一員になれていることを嬉しく思います。」(中)
ダッカメトロ5号線(北路線)の完工予定は2029年だが、おそらくその先にも、バングラデシュにおける交通インフラ開発事業は続いていくことになるだろう。何世代にもわたるJICA担当者の意思と想いをつなぎながら築かれるバングラデシュの未来、人々の豊かな暮らし。一人ひとりの担当者の奮闘は、ビッグプロジェクトの一断片であったとしても、国創りへの想いが世代を超えて共有されているからこそ、プロジェクトの理念は揺らぐことがない。それが、JICAが手掛けるインフラ開発事業である。