“植林”の次を目指す事業を
インドは、中国、米国に次ぐ世界第3位の温室効果ガス排出国であり、その環境政策、気候変動対策は大きな注目を集めている。そうしたなか、2021年に英国・グラスゴーで開催された「国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)」におけるモディ首相の演説は、少なからぬ驚きを世界に与えるものだったと言えるだろう。それまでインドは、温室効果ガス排出ゼロを達成する期限目標を明示してこなかったが、ここでモディ首相は、2070年までに排出ゼロを達成することを明言。これも踏まえ、インド政府は2022年、パリ協定に基づく「自国が決定する貢献(NDC : Nationally Determined Contribution)」(※注)において、2030年までにCO2排出量を45%削減し、同じく2030年までに、25〜30億トンの二酸化炭素吸収源となる森林を造成していくという目標も提示。俄に気候変動への取り組みを加速させている感があるが、そこには、自然災害大国としての切実な危機感や、多様性に富んだ生態系を擁する国土を保全していこうとする、国家としてのテーマも深く関わっていることは間違いないだろう。
インドは、国土の85%がサイクロン、洪水、土砂災害といった自然災害に対する脆弱性が高いとされ、気候変動によってこうした災害が激甚化していく懸念も高まっている。また、世界で36カ所のみ指定されている“生物多様性ホットスポット(人類による破壊の危機にさらされている、生物多様性が非常に高い地域)”が国内に存在するなど、自然環境破壊に対する危機意識も強い。こうしたインドの問題意識に寄り添い、既に1990年代初めから、植林を始めとするさまざまな協力を行ってきたのがJICAである。ラジャスタン州、ナガランド州、カルタナカ州、グジャラート州……JICAが植林、生物多様性保全事業を手掛けてきた地域は極めて広範囲に及ぶが、インド最南端、タミル・ナド州において2022年からスタートした新たなプロジェクトは、インドとJICAの協働によって展開してきた森林事業をまた新たな次元に導く、画期的なものであることは間違いない。
「タミル・ナド州での事業は今回が4回目になりますが、かつてはシンプルに、植林面積の拡大を追求していたようなところがありました。ただ、はげ山だったところが本当に豊かな緑に覆われるようになったというように、これまで手掛けてきた事業は目覚ましい成果を挙げてきたわけです。また、JICAは自分たちがやりたいことだけをやるのではなく、インド側の要望もしっかりと聞き入れたうえで、いい案件を作り上げていく努力を惜しまない……そうしたJICAへの評価、信頼の積み重ねが、今回の案件につながってきていることは間違いないでしょう。インド側としても、新しい課題が出て来た時に、先ず相談すべきはJICAだろう、という意識を持ってもらえています」
松野下稔
松野下の背景、緑が生い茂っているのが、新人時代に担当した事業で植林されたエリア。
このように案件成立の経緯を説明するのは、南アジア部南アジア第一課に所属する松野下稔。2009年に入構した松野下は、最初の配属が現在と同じ南アジア第一課で、新人時代にも、タミル・ナド州における植林・生物多様性保全事業を担当している。「JICAへの評価、信頼の積み重ねが、今回の案件につながってきている」という言葉は従って、松野下の“実感”の表現でもあるのだ。そして、松野下が言う“インド側の新しい課題”に応えていくために、100億円以上の円借款事業として動き始めたプロジェクトが、ここで紹介する「タミル・ナド州気候変動対策生物多様性保全・緑化事業」なのだ。
※注……パリ協定(2015採択、2016発効)においては、全ての加盟国が温室効果ガスの排出削減目標を「自国が決定する貢献(NDC)」として、5年ごとに提出、更新する義務がある。
多様化していく課題に応える新しいコンセプト
およそ7,200万人の人口を擁するタミル・ナド州は、総延長1,076kmに及ぶ海岸線が州都チェンナイから南に延び、極めて豊かで多様な生態系が存在する地域でもある。先に触れた、世界に36カ所存在する“生物多様性ホットスポット”の一つとは、インド西岸からスリランカにかけてのエリアだが、タミル・ナド州南端部分がここに含まれる。この“生物多様性ホットスポット”に育まれている生態系は極めて貴重で、地球上の全生物のうち、植物の50%、両生類の60%、爬虫類の40%、鳥類・哺乳類の30%が、この、世界36カ所にしか存在していない。
こうした豊かな自然環境を有するタミル・ナド州は、むしろそれ故に、環境破壊を始めとするさまざまな課題を抱える地域でもある。森林周辺の住民が生計維持のために林産物等を過剰採取することで生じる森林に対する負荷の増加、繁殖力の強い外来植物の拡散、過剰な漁業活動による水産資源の減少といった問題が深刻化しているほか、同州では500種類以上の動植物が絶滅の危機に瀕しているとされ、珊瑚礁の白化や藻場の減少、マングローブ林の被覆面積の減少等も進行している。こうした自然環境、生態系の劣化に加えて、急速な経済開発・都市化の進展によって人間の活動領域と野生動物の生息域が近接化し、人間と野生動物の軋轢……具体的には、象の生息域に人間が接近することによって生じる農作物の被害や、接触・衝突による住民の負傷・死亡事故、野生動物の死亡といった問題も顕在化してきている。まさに、多様な生態系を有するが故の多様な課題に直面しているのが、タミル・ナド州の現状であると言えるだろう。
象が生息地を越えないように整備された溝。
佐々木ひらり
「気候変動圧力ともあいまって、タミル・ナド州には現在、さまざまな新しい課題が生じていると言えます。同州では近年、地滑りや旱魃、熱波の発生、高潮、洪水等によって年間5,000世帯以上が被害を被っており、従来から重視してきた環境保全、生物多様性保全といった視点だけでなく、防災・減災効果を高めていくためのアプローチも重要になってきている。今回の『タミル・ナド州気候変動対策生物多様性保全・緑化事業』においてJICAは、“生態系を活用した防災・減災(Eco-DRR)”というコンセプトに基づいて、沿岸地域にマングローブ林を造成したり、珊瑚礁や藻場の修復を行うといった取り組みを支援していますが、これは、生物多様性保全、気候変動対策のみならず、高潮や洪水に対する防災・減災効果を高めていくうえでも重要な意味を持つものであると言えます。植林活動やEco-DRR活動を通して削減できるCO2削減量は、年間24万3千トンに上ると試算されますから、インド政府がNDCで掲げる目標を達成していくうえでも、重要な貢献を果たしていくものであると言えます。
また同州では、森林周辺に居住し、生計手段を森林資源に依存している方たちの営みが森林の荒廃につながっているということも課題になっており、この事業ではこうした住民の方たちに、養豚、養蜂といった代替の生計手段を提供したり、啓発活動を行ったりといった取り組みも実施しています。この生計向上活動では、主に女性で構成されている現地住民の方たちの自助グループを実施主体とするといった、ジェンダーに配慮した視点も盛り込まれています。一般に円借款というと、大規模なインフラ開発などをイメージされる方が多いのではないかと思いますが、インドではこのような、森林事業や生物多様性保全、農業といった、非常に多様な社会開発の分野で円借款を通じて支援しています」
プロジェクトのアウトラインをこのように解説してくれるのは、松野下と同じく、南アジア部南アジア第一課に籍を置く佐々木ひらり。佐々木は、重工メーカー勤務を経て2020年より有期雇用として現部署で勤務するようになり、その後、内部登用制度に応募して職員になったというバックグラウンドを持っている。これまで、インドの森林・農業事業、ブータンの保健事業等に携わってきたが、JICA入構まで環境や森林、生物多様性等に触れる機会はまったくなかったという。しかし「まったくゼロからのスタートでしたが、上司の指導や同僚の助言をもらいながら、即戦力となれるように頑張りました」という言葉の通り、佐々木は本件の担当者として、さまざまな困難を乗リ超えながらもこの大規模な円借款事業を融資契約締結まで漕ぎ着けた。
佐々木の説明からも明らかなように、今回の「タミル・ナド州気候変動対策生物多様性保全・緑化事業」は、従来の“植林事業”を遙かに超える、さまざまな要素を含み持ったものであることがわかるだろう。それはもちろん、インド、タミル・ナド州政府から提示される要望が多岐にわたるものだったということでもあるが、複雑化・高度化する課題に対して、JICA側としても新たな試みを果敢に提案していった結果でもある。ここからはしばらく、この新たなチャレンジを形にしていく、松野下と佐々木の試行錯誤のプロセスを追ってみよう。
整備を行うマングローブ林
“学術連携”という新たなチャレンジ
「かつて、JICAが植林事業の協力を始めた頃は、インド側の問題意識は基本的に、森林保全ということがほとんどだったのではないかと思います。それが、私が最初に関わるようになった2010年あたりから生物多様性というテーマが加わり、今回は明確に、気候変動対策が最優先の課題へと浮上してきている。これはもちろん、COPやパリ協定、SDGsといったグローバルな議論の高まりを踏まえて、インド政府自体の姿勢が変化してきていることが背景にあることは間違いないでしょう。今回、タミル・ナド州森林局から示されている要請・事業計画は非常に多岐にわたるものでしたが、我々としても、4回目となるこのプロジェクトは、新たなチャレンジを盛り込んだより良いものにしていきたいという強い思いを持っていました。先にお話しした通り、気候変動対策というテーマがフォーカスされてくる一方で、そこに適切にアプローチしていく方法論は未だ確立されていないところがある。であるならば、日・印の研究者の方々にも事業に参加してもらって、事業の実施地域自体を研究のフィールドとすることでその成果を事業の改善に役立てていく……そうした“学術連携”を今回のプロジェクトの軸の一つにして行こうということを考えたわけです」(松野下)
森林や野生生物の管理を担う女性森林官との打合せの様子。
こうした思い、コンセプトをベースにして、佐々木、松野下らは、インド側から提示されている事業計画の妥当性、そして、学術連携を含めた“新たなチャレンジ”を形にして行くための調査を進めていくことになる。しかし、この調査が始まったのは2021年春頃のこと。ちょうどコロナ禍の中で、現地への出張はままならない状況があった。事業の実施主体となるタミル・ナド州森林局との打合せも、基本的にオンラインであった。
コロナ禍の中で行われたオンラインミーティングの様子。
「個人的には森林案件自体が初めてだったということもあり、現場をなかなか見られないというのはやはり難しかったですね。インド側が想定している活動の必要性を理解するうえでも、自分の中で本質的に咀嚼していくのが難しいというところはあったと思います。また、我々から提案した“学術連携”の具体的な内容としては、今回のタミル・ナド州円借款事業の実施地域を研究対象として、日本、インドの研究者によってチームを組んでいただき、気候変動への適応やそこから派生することが想定されるさまざまな問題の緩和策を検討して森林局の政策や活動に反映していただくというものです。これに関しては、日本に対する信頼や期待もあり、先方も実施の意義は十分に理解しつつも、全く新しい枠組みということもあり、具体的な了承を得るまでにはかなりの調整、交渉を要しました。その過程では、先方の懸念点はどういったところなのかを細かく確認し、研究機関側からも、どんな専門性を調査・研究に活かしていただけるか、どういった調査・研究を行うとどのくらいの予算がかかるといった具体的な情報もヒアリングしながら、方向性を詰めていった形でした」(佐々木)
こうした交渉、ミーティングは、オンラインベースで2021年の暮れまで再三にわたって重ねられた。日本側の参加者は基本的に松野下と佐々木の二人だが、タミル・ナド州森林局からは局長、副局長を含め総勢5〜6名、場合によっては州政府の森林担当次官が加わることもあったという。
「インドの中でJICAは、植林や生物多様性保全に関する事業をさまざまな地域で手掛けており、本当に膨大なフィールドがあるんですね。これは、日本の研究者の方々にとっても非常に魅力的なものなのではないかということは、課の中では前々から話していたことでもありました。やはり我々としても、いつも同じことをやっていては進歩がありませんから、新しい価値を伴ったより良い事業を作り上げていきたい。日本の研究者にも、インドの研究者にも、タミル・ナド州森林局にもしっかりとメリットがある、それぞれにとってWin-Winの事業というのを検討するなかで生まれたのが、今回の“学術連携”だったと言えると思います。またこうした方法論は、JICAが手掛ける開発協力を、いかに効果的で持続的なものにしていけるかということを考えるうえでも役立つものだと思いますから、他の事業の中にも援用していけるものではないかと私は考えています」(松野下)
こうした調査、企画、インド側との折衝プロセスを経て、松野下と佐々木は、事業の最終的な承諾を得るための、膨大な情報や統計の処理、先方の根拠情報の確認に取りかかっていくことになる。この意思決定の場は、JICAの理事長も出席して2022年1月に開催される理事会。ここに向けて二人は、およそ3ヶ月の間資料の作成に没頭することになった。しかし、既に固まったと考えていた事柄に対してインド側から新たな注文や変更依頼が来ることもしばしばで、その度に二人は、頭を突き合わせて数字の検証等に追われたという。
「やはり案件担当としては、インド側との度重なる調整・折衝を経て、およそ200ページに及ぶ資料をまとめ上げ、理事会の承認を得たというところが最大のヤマだったかなと思います。こうした大きな案件に主担当として関わるのは初めてだったということもあり、心の中の重荷がとれてホッとしたことは間違いありません(笑)」(佐々木)
途上国の人々の幸せを、豊かさを築くために
「タミル・ナド州気候変動対策生物多様性保全・緑化事業」に関する円借款契約の調印は、2022年3月31日、ニューデリーのインド財務省会議室において、財務省次官補、JICAインド事務所長等の出席のもとに行われた。松野下と佐々木は、日本からオンラインでセレモニーの模様を確認したとのことだが、二人にとってはおそらく、このさまざまな新機軸を含む事業を実現に漕ぎ着けたことを契機として、また次のチャレンジに向かうための決意を新たにする機会でもあったのではないだろうか。
「タミル・ナド州気候変動対策生物多様性保全・緑化事業」は、2030年7月までに全活動を完了することを予定しているが、そこで取り組んでいく事業の概要は、以下のようなものになる……
2023年3月31日、インド財務省において行われた円借款契約調印式。
●植林、マングローブ林の造成、珊瑚礁・藻場の修復、外来植物の除去、研究、住民向けの啓発活動といった「生物多様性保全」
●野生動物の回廊整備といった獣害対策等の「人間と野生動物の軋轢対策」
●林産物の市場調査、ポータルサイト構築等の「林産物サプライチェーン強化」
●住民向けの職業訓練やエコツーリズム振興等の「生計向上活動」
●森林局職員に対する研修、生物多様性にかかわるパイロット調査等の「森林局の組織体制強化」
●事業のモニタリング、研究開発機関等との連携促進、森林局への技術指導等の「コンサルティング・サービス」
森林保全という単一的な課題をテーマに、植林を手掛けることからスタートした森林分野におけるJICAのインドに対する協力は、これほど多岐にわたる課題を射程に入れた、多様で重層的なアプローチを持つ事業へと発展してきたのである。
新たな課題に対峙しながら新たな価値を持った事業を創り上げる……松野下と佐々木は、今回の案件形成プロセスでそれを実現したが、将来に向けて、二人がJICAの仕事を通じて実現したいと考えているのはどのようなものなのだろうか?
「分野横断的にいろいろなセクターを見渡しながら、大きなインパクトを出せる案件をデザインしていきたいというのが、現時点での目標でしょうか。今回森林案件を担当してとても楽しかったのですが、他にも貧困削減や農業といった“人に近い”分野に、私としてはとても惹かれるところがあります。さまざまなセクターに関わりながら、より開発インパクトの大きい案件を形成していける力を身に付けていきたいと考えています。
JICAに入ってつくづく思うのは、職員の皆さんが本当に国際協力に対して強い思いを持っていて、組織としてのミッションに共感しているということ。だからこそ、皆が同じ方向を向いて、力を合わせて仕事に取り組み、より良い事業につなげることができる。また、仕事において大変なことはもちろん数々あるわけですが、そうした中でも、冗談や雑談を含めたわきあいあいとした空気を皆が自然に醸成することで、ヤマ場を乗り越えていける……こうした組織としての風通しの良さには、私のような経験の浅い職員はとても助けられました。こうした環境に身を置くことができるのは本当に幸せなことだなと思いますから、その中でもっともっと自身の力を高めて、途上国の人々の幸せを築いていける事業を手掛けていきたいですね」(佐々木)
「学生時代にバックパッカーとしてさまざまな国を旅したことがあるのですが、マダガスカルの農村で野宿をし、焚き火をたいていると、近所の子ども達が寄って来てしばらく一緒に過ごしたことがありました。生活環境が厳しくてもたくましく暮らしている彼らの横顔を眺めながら、この子達が“目指すことができる将来”を、より豊かで選択肢の多いものにしたいと考えたことが、JICAに入った原体験のところにはあるのですが、その思いは今も基本的に変わりません。
私も佐々木さん同様、分野や地域にあまりこだわりは無いのですが、JICAは本当に多様な支援ツール、メニューを持っていますから、それらをうまく組み合わせつつ呼び水にして、民間企業や研究機関、さまざまな人々と協働し、より良い協力を創り上げていく……そうした仕事をこれからも手掛けていきたいですね。それはもちろん、途上国の人々のより良い暮らし、より豊かな将来を創っていく仕事ということになるわけですが」(松野下)
途上国の人々の幸せを、より豊かな暮らしを築くこと……このシンプルで、最も本質的なテーマに向きあいながら、JICA職員たちは今も、新たな事業創出に取り組んでいるのだ。