家族に自分の仕事を理解してもらうことの大切さ
農学部の大学院で畜産を学び、2002年にJICAに入構しました。そもそも農学部を目指したのは、植物が好き、動物が好きというシンプルな動機だったのですが、学んでいく中で日本の食料自給率の低さやフードバリューチェーンと環境負荷の問題、途上国の食料不足といった、農業をめぐる社会課題に関心を持つようになりました。ですから、入構後すぐに農村開発部の配属となり、タイ、ベトナム、ブータン等のさまざまな農業・畜産関連のプロジェクトに携わることができたのは、まさに“やりたいことができている”という実感が持てる、とても充実した経験でした。
入構翌年、2003年に大学時代に知り合ったパートナーと結婚しましたが、夫は関西の民間企業に勤めており、これまで夫と同居した期間は、一時期夫が東京にいた間と、私が産休・育休から復帰しJICA関西(大阪)に勤めた計6年間ほどで、それほど長くはありません。この話をすると結構驚かれることも多いのですが、学生の頃からお互いの仕事観についてはじっくり話し合ってきましたし、彼の方も家事を分担してこなす自立した人で、私の仕事をよく理解し、尊重してくれています。JICA関西での勤務の後、2012年から当時4歳の娘を伴ってカンボジアに駐在しましたが、こうしたことができるのはやはり、家族に自分の仕事をしっかりと理解してもらっていることが前提になる。幸いにして私の場合は夫が非常に協力的で、次の勤務地の希望は海外にしたいという話をした時も応援してくれましたし、「できればアジアがいいね」と話し合ったりもしていました。夫も、娘がこのタイミングで海外で暮らすことができるのは、彼女にとってかけがえのない体験になるはず、という思いがあったのだろうと思います。良く言っていました、「この歳で海外で暮らせるのはスゴイ、うらやましい」と(笑)。
ただ、大阪で家族3人で暮らした時間はとても濃密なものでしたから、夫と娘を引き離してしまうことの罪悪感はとても大きかったですね。プノンペンで暮らし始めて3ヶ月ほどは、娘も現地の環境になかなか慣れることができず、「パパに会いたい」としょっちゅう泣いていましたし、私自身、なんてことをしてしまったのかといつも悩んでいました。大阪時代は毎週末たっぷり遊んでもらって、娘と夫は本当に仲が良かったですから……。それでも、半年くらいすると一切泣くことはなくなり、1年経つともう日本のことは忘れたんじゃないかと思うほど、娘も現地の生活を楽しめるようになっていました。3年半後、私の離任の際には反対に、「こっちの友達と別れたくない、カンボジアがいい」と泣いていましたね(笑)。子供の適応力というのは本当に素晴らしいものがあります。