国概要

1. 基本情報

パラグアイ国旗
正式国名:
(日本語)パラグアイ共和国
(英語)Republic of Paraguay
(西語)República del Paraguay
首都:
アスンシオン
国名・首都名の由来:
二説あります。スペイン人がアスンシオンに到着したとき、当時同地近辺に住んでいた先住民のグァラニー語で「優しい水」を意味する「Tavaparagua-í」がスペイン語訛でParaguayになった説と、「パパガーリョ(オウムの一種)の住む谷の川」または「羽のかぶった川」を意味するParagua-íがスペイン語訛でParaguayに転化したという説があります。
政体:
【写真】

大統領府

政体:立憲共和制
元首:
マリオ・アブド・ベニテス大統領
面積:
40万6752平方キロメートル(日本の国土の1.1倍)
人口:
715.2万人(2019年:パラグアイ統計・調査・国勢調査総局)
民族:
先住民と欧州系の混血97%、欧州系2%、その他1%
公用語:
スペイン語、グァラニー語
宗教:
カトリック(国民の98%が信仰)
タイムゾーン:
GMT−4(日本より13時間遅れ)夏時間(10月第1日曜から3月最終日曜、年により異なる)採用中はGMT−3(日本より12時間遅れ)
気候:
【写真】

ブルクジャの花

熱帯性気候に属するが、西部は乾燥地帯で、東部へ向かうほど降水量が増して湿潤となります。季節は夏と冬に大別され、春と秋の期間は短いです。
通貨:
グアラニー(Gs.)1米ドル=6,880Gs.(2020年10月現在)
主要産業:
農業(綿花、大豆)、牧畜業(食肉)、林業

【画像】

2. 歴史

1811年 スペインから独立
1864〜70年 三国戦争(対ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ連合軍)で人口激減
1932〜35年 チャコ戦争(対ボリビア)に勝利
1954年 ストロエスネル将軍がクーデターにより政権掌握、以後35年にわたり独裁政権継続
1989年2月 クーデターによりロドリゲス将軍が政権掌握
1989年5月 ロドリゲス将軍、大統領に就任
1993年8月 ワスモシ大統領就任、39年振りの文民政権誕生
1998年8月 クーバス大統領就任
1999年3月 ゴンサレス大統領就任
2003年8月 ドゥアルテ大統領就任
2008年8月 ルゴ大統領就任
2012年6月 ルゴ大統領弾劾決議に伴い、フランコ大統領就任
2013年8月 カルテス大統領就任
2018年8月 アブド大統領就任

1521年にスペイン人によって“発見”されるまで、パラグアイは先住民であるグァラニー族の支配するところでした。彼らは、焼き畑農業を営む温和な先住民であり、スペイン人探検家とは早くから友好な関係を築いていたといわれています。スペイン人探検家たちは定住地として、1537年に現在のアスンシオンに港をつくり、この地方の植民の根拠地としました。アスンシオンはヨーロッパへの銀の積出港として栄え、スペイン総督府が置かれましたが、1617年にアルゼンチンのブエノス・アイレスに移されました。

パラグアイは1810年に独立を宣言し、ブエノス・アイレス総督府からの遠征軍を2度にわたって撃退、1811年5月14日独立を達成しました。その後、27年間のフランシア博士政権下の鎖国政策を経て、カルロス・アントニオ・ロペス大統領が誕生しました。同大統領は開明的独裁政治を行ない、国力が大いに充実しました。

次期は息子のフランシスコ・ソラーノ・ロペスが大統領に就任しましたが、1864年、ウルグアイの内紛に端を発したブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3国同盟を相手とする、三国戦争(1864~1870年)に突入して敗れ、国土は4分の1を割譲させられ、国民数は約50万人から半数以下へ激減するという痛手を受けました。

さらに、1932年、北部地域での国境紛争をめぐり、紛争地域名からチャコ戦争(1932~1935年)と呼ばれるボリビアとの戦争が勃発しました、パラグアイは紛争地域の大部分を確保したものの、財政的に大きな痛手を受けました。

第2次世界大戦では、1942年に枢軸国との断交を行ない、1945年には宣戦布告しました。

19世紀以来、政党間の抗争や内紛が続き、常に政情不安定でしたが、第2次世界大戦後もこの状況は変わらず、1947~1954年のわずか7年の間に6人の大統領が政権に就きました。

1954年5月、ストロエスネル陸軍司令官を中心とするクーデターが起こり、ストロエスネルが大統領に就任しました。その後、同大統領は、伝統的な大政党である国民共和協会(AsociaciónNacional Republicana:通称コロラド党)の支持を得て、以降8期、34年間にわたり政権を担いました。

1989年2月、軍部によるクーデターによりストロエスネル独裁政権は崩壊し、同年5月に行われた総選挙(大統領および上下両院議員を選出)を経て、首謀者であったロドリゲス将軍が大統領に就任しました。同大統領は制憲議会招集、表現の自由の確保、経済自由化など、民主化への基盤を作り、平和裡に政権を移譲しました。

1992年6月施行の新憲法に従い、1993年5月大統領選挙が行なわれ、同年8月にワスモシ大統領が就任し、39年ぶりの文民政権が誕生しました。同大統領は、民主化を重点公約に掲げ、人権の尊重、司法権刷新、憲法遵守など、民主化定着の観点から政治的には成果をあげました。また、軍部の政治、経済、社会的影響を大きく減退させました。他方、失業者の増加、貧富の差の拡大など、社会経済面では目ぼしい成果はみられませんでした。

1998年の大統領選にむけた1997年9月の中道右派コロラド党(赤党)内予備選挙では、オビエド将軍が勝利し、同党の大統領候補となりました。しかし、同年12月、ワスモシ大統領は、オビエド将軍を上官(軍最高司令官である大統領)への虚偽告訴罪で30日間拘束し、その間に1996年の同将軍によるクーデター未遂事件の審判のため、特別軍事裁判所を設置しました。1998年3月、同裁判所はオビエド将軍に10年の禁固刑を判決し、最高裁でも争われることとなりましたが、最終的に最高裁も同判決を認めたため、オビエド将軍は大統領候補資格を喪失しました。

その後、副大統領候補であったクーバス元大蔵大臣が繰り上がり、副大統領には党内予備選挙2位であったアルガーニャ総裁が選ばれ、1998年5月の総選挙ではコロラド党が勝利しました。

1998年に就任したクーバス大統領は、信頼できる司法制度の確立、経済活性化、犯罪撲滅などを掲げ、民主主義強化への積極的姿勢を見せましたが、オビエド将軍の釈放措置を巡って国会および最高裁と対立することとなり、国会における重要法案審議が停滞しました。クーバス大統領弾劾の動きがでる中、1999年3月24日、アルガーニャ副大統領が暗殺され、この暗殺事件が引き金となった社会混乱の責任を取り、同年3月28日に同大統領は辞任しました。

【写真】

アスンシオン市パルマ通り

クーバスの大統領辞任により、憲法の規定に則り、翌29日ゴンサレス上院議長が大統領に就任しました。就任後、同大統領の罷免を求める動きが活発化し、下院は罷免を議決しましたが、2003年2月に上院が否決したことにより終息します。同年4月27日、大統領選挙が実施され、ドゥアルテ与党国民共和協会(ANR;通称コロラド党)党首が次期大統領に選出されました。

2003年8月15日に就任したドゥアルテ大統領は、汚職対策を含む政治改革及び経済構造改革を主要課題とし、腐敗幹部の追放や司法改革、税制改革の推進等、国民の期待に徐々に応えていきました。

2003年末には債務支払い不履行となる事態さえ予測された中、前政権末期には暗礁に乗り上げていたIMFとの交渉は、9月のドゥアルテ大統領の訪米を契機に、IMFとのスタンドバイクレジット交渉が本格化しました。10月のIMFミッションのパラグアイ来訪時には、同政権の改革努力が評価され、12月15日のIMF理事会にて正式合意に達しました。本合意に基づき、ドゥアルテ政権は、経済改革の面においても、外貨準備高の上昇、インフレの抑制、税収拡大等具体的な成果を上げており、2006年1月には所得税の導入を目的とする税制改革法案が成立しました。

2008年8月に、中道左派のルゴ元司教(野党連合「変革のための愛国同盟」)が大統領に就任し、61年ぶりの政権交代となりました。ルゴ大統領は、雇用創出、治安対策、司法改革、汚職対策等の面で改革手腕を期待されましたが、政策の不備により国民の不満が増大し、2012年6月にカニンデジュ県クルグアトゥ地区で死者17人を出した、土地なし農民グループと警官隊との衝突事件の責任を問われ、国会による弾劾裁判を経て罷免されました。ルゴ大統領罷免後、憲法に則り真正急進自由党(青党)のフェデリコ・フランコ副大統領が大統領として就任しました。

2013年4月21日に大統領選挙が実施され、コロラド党のオラシオ・カルテス氏が当選し、同年8月に大統領として就任しました。カルテス新政権は、持続可能な経済成長と効率的な社会セーフティーネットの構築を通じた雇用の創出や貧困削減を目指す等の戦略・政策を表明しました。

2018年4月に大統領選挙が実施され、与党であるコロラド党のマリオ・アブド・ベニテス氏が当選し、2018年8月15日に正式に就任しました(任期は5年間・再選禁止)。前政権のカルテス大統領が推進した、「国家開発計画2014-2030」をベースに、「貧困削減と社会開発」「包括的な経済成長」「国際社会への参画」の3点を柱とし、持続可能な経済成長、雇用の創出、貧困削減等の戦略・政策を掲げ、パラグアイの基幹産業である農牧業の推進(輸出促進、小農支援など)や、投資誘致法、マキラ(保税)法及びフリーゾーン制度などの優遇措置による外国直接投資の誘致を推進しています。

2018年12月には、安倍首相(当時)が歴代首相として初めてパラグアイを公式訪問しました、その際首相は、在留邦人及び日系社会との懇談を持ち、1936年に移住を開始し、以後パラグアイ経済の発展に多大なる貢献をした移住者の不断の努力を称えるとともに、日系社会支援の拡充を表明しました。また、アブド・ベニテス大統領との間で、2019年の外交100周年を機に、経済協力や投資促進を進める合意が交わされました。

資源・穀物等一次産品の価格の低迷等の影響で、中南米地域全体の経済成長が失速する中、パラグアイは政府の堅実なマクロ経済運営、建設部門の好調等により2013年以降安定した経済成長を記録し、2018年の経済成長率は4.0%となりました。パラグアイの主要産業は大豆・小麦・牛肉生産を中心とする農牧林業で、天候による影響が極めて大きいため、政府は経済の脆弱性を解消するために産業構造の多角化を重視しています。