【TICAD7に向けて~私とアフリカ~:Vol. 7】最貧国タンザニアを変えた「希望のコメ」:富高元徳 元国際協力専門員

2019年6月28日

国連の最新予測では2019年の約10.6億人から2050年には約21億人に倍増すると推測されるサブサハラ・アフリカ(サハラ砂漠以南)の人口(注)。経済成長や市場拡大の期待がかかる一方で、貧困や食料不足などの解決が切実かつ喫緊の課題とされています。JICAはアフリカ各国で農業開発を進めるなか、タンザニアでは1970年代からアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ山麓で稲作振興支援を開始し、徐々に全国へと発展。70年代当時は約28万トンだった国内でのコメの収穫量(もみ換算)は、2016年時点で286万トンを超えるまでに成長しています。

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JICAが支援するキリマンジャロの麓を含む北部タンザニアのかんがい稲作はアフリカ稲作振興へのヒントとなります。

用水路の草を前に奮闘する富高元徳・元国際協力専門員

シリーズ【TICAD7に向けて~私とアフリカ~】の第7回は、約30年にわたって、タンザニアにおける稲作振興支援の現場に立ち続けた富高元徳・元国際協力専門員に、長年の協力の成果と、コメがもたらした人々の生活の変化について伺いました。

(注)世界の人口予測2019(国連DESA/人口課)より

コーヒーの有名産地はアフリカ最貧国だった

かつて、アフリカの中でも最貧国の一つとして数えられていたタンザニア。同国におけるJICAの稲作振興支援の歴史は、1970年代にさかのぼります。

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1996年当時のキリマンジェロ州ローアモシかんがい地区。資金協力プロジェクト『ローアモシ農業開発計画』(1987年竣工)で整備したこの農地におけるかんがい農業の確立定着を支援するために、技術協力プロジェクト『キリマンジャロ農業開発センター計画』(1978~86年)と『キリマンジャロ農業開発計画』(1986~93年)が実施されました。

「タンザニアのキリマンジャロ州はコーヒーやバナナの産地として知られる一方で、日本が開発協力の対象とした農村の生活は豊かではありませんでした。草屋根と土壁の“小屋”のような家が目立ち、裸足で駆け回る子どももいました」と、赴任当時を振り返る富高元専門員。

タンザニア政府は、地域開発のための支援を各国に要請。キリマンジャロ州を担当することになったのが日本です。

「これを受け、JICAは『キリマンジャロ州総合開発計画』を策定します。そのなかで、キリマンジャロの雪解け水という貴重な水資源に着目し、かんがい施設整備を含む農業振興を提案したのです」。

富高元専門員は、「キリマンジャロ農業開発計画」(1986〜93年)に畑作物担当専門家として関わり、「キリマンジャロ農業技術者訓練センター計画(1994~2001年)に稲作担当の専門家として関わりました。

稲作支援で変わった農民の生活水準

協力当初、多くの農民はかんがいによる稲作に対して懐疑的でした。限られた雨水に頼って栽培していたため、コメは「労働の割には収益が少ない作物」という認識だったのです。しかし、日本の協力によってかんがい施設が完成し、水管理・トラクタによる圃場準備(代掻き・均平)・稲作技術(改良品種・施肥・田植え・除草)を組み合わせた最初の収穫で既存の約4倍の収量を記録すると、多くの農民がその考えを一変させます。

かんがい稲作農家の住宅。早生品種の導入で水稲二期作が可能になり、生活水準は大きく向上しました。(アルーシャ州メル県)

「農民の住む家は、トタン屋根とレンガやコンクリートブロックの壁に変わっていきました。中学校にすら進学できなかった子どもたちが、高校・専門学校・大学にも進学できるようになりました。村には診療所や小中学校が増えました。かんがい稲作は田植え・除草・収穫などに多くの人手を必要とし、雇用機会の増加にもつながりました」

コメの市場性の高さが認知されると、かんがい稲作は近隣地域に広まり始めました。富高元専門員は、その後も「かんがい農業技術普及支援体制強化計画」(2007〜12年)と「コメ振興支援計画プロジェクト」(2012〜19年)にチーフアドバイザーとして関わりました。

プロジェクトによる農民研修は、農家の生活にさまざまな影響を与えました。「コメの収入で牛を買った農家の方が、『ウシの子どもに“Kumbuka Japani”(クンブ ジャパニ=日本の思い出)と名付けてくれた』といった嬉しいエピソードや、もみで販売していた農民たちが、『端境期に精米して販売した』とか、女性の社会参加が進み、家事や農作業を協力し合うだけでなく『家計管理も夫婦で行うようになった』とか、さまざまなインパクトがありました」。

タンザニアで息づく、日本農家の維持管理の心

軌道に乗ったかのように思えた稲作支援ですが、一時期タンザニアを離れていた富高元専門員が数年ぶりにキリマンジャロ州の用水路へと足を運んだときに、思いもよらぬ光景が広がっていました。

「コンクリート張りの用水路に草が繁茂していました。用水路が建設されても、維持管理を怠れば、壊れてしまいます。かんがい稲作の持続性を確保するには、施設が継続的に維持管理されなくてはなりません」

そこで、JICAは関係機関と意見交換をし、農民たちがより積極的にかんがい施設の維持管理を担うための研修をスタートさせました。そのとき富高元専門員が思い出したのは、宮崎県高千穂で育った子どもの頃のことでした。

「家の裏山には用水路があり、春には水路脇に出たタケノコを掘ります。管理を怠ると、竹の根が水路を壊す可能性があります。私は、機会があると、用水路を見回る兄の写真を見せながら、自発的に維持管理しないかんがい施設は崩壊すると伝えてきました。最近、タンザニアの農民の間にも、『施設の自発的維持管理の意識が育ちつつある』ように感じます」。

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用水路の草を引き抜くカウンターパート(アルーシャ州モンドリ県にて)

2018年末にタンザニアから帰国した富高元専門員は、後進の世代への期待を次のように話します。

「アフリカのコメ産業振興への協力は、農民の生計向上だけでなくアフリカ大陸の食料自給の改善にも貢献するでしょう。かんがい地区運営やジェンダー的視点などを含めたタンザニアでの経験や教訓は、先行事例的に、アフリカのコメ産業発展の参考になり、近隣諸国間の普及員や農民の交流を側面から支援することも有効でしょう」。

富高元専門員には、タンザニアで歌い続けてきた歌があります。それは、名曲『知床旅情』のメロディーに乗せた惜別の言葉。タンザニアへの長年の思いが込められています。

♪「キリマンジャロの麓が 稲穂の波で揺れる頃 思い出しておくれ 俺たちのことを アフリカの大地に 日本人が 燃やした命と 流した汗を
アフリカのサファリには 別れの日が来る いつかは出て行く かの峰をこえて 忘れてくれるな かの川かの村 地図に描いた夢や 大地に刻んだ未来も」

【画像】(プロフィール)
富高元徳(とみたか・もとのり)
大学卒業後、1974年に青年海外協力隊の家畜飼育隊員としてフィリピン赴任。85年に国際協力専門員に就任。86年にキリマンジャロ農業開発計画に参加。2016年の専門員退職後も、2018年までコメ振興支援計画プロジェクトに赴任(同プロジェクトは2019年12月に終了予定)。宮崎県出身

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