思い出の一枚「リガンガ村に誕生した新たな命」

2021年10月14日

名前:大塚 善久
隊次:2006年度3次隊(2007年3月~2009年3月)
職種:村落開発普及員
配属先:農業・食糧安全保障省サリマ地方事務所
出身地:東京都三鷹市

「遅い!何日間待たせるの?早くこの子に名前をつけてあげて!」私が活動していた、とある小さな村で産まれた一人の女の子。その子の母親が、名付け親となる私へ言った一言だ。

2008年9月末、任地サリマの小さな村で、産声をあげた一人の赤ん坊。パンジェ家の父親は、農業とチャリマト(自転車タクシー)で日々の生計を立て、母親は5人の子どもたちを育てながら、家事と農作業に精を出していた。電気・水道のない、マラウイではごくありふれた貧しい農村の家庭で産まれた、一人の女の子と私の忘れられない物語。

私がこの一家の住むリガンガ村で活動を始めたのは、女の子が生まれる半年前。マラウイでの2年目は、飢餓を防ぎたいという一心で、ネリカ米の試験栽培を一緒に取り組んでくれる村を探すため、稲作に適した村を見つけては、同じサリマ県の稲作隊員の菅谷惣君とともに、飛び込み訪問を続ける日々だった。リガンガ村の裏手には大きな沼があり、米の栽培に適していたことから、まだおぼつかないチェワ語で、村長に試験栽培の要望を伝えたところ、村長は快諾。農地の一部を貸してくれるだけでなく「せっかくの機会だから、村の女性たちに色々と教えてあげてほしい。私の娘が中心となって色々と協力する」と紹介してくれたのが、妊娠中のパンジェ夫人だった。
外国人と接点などなかった村人たち。土地の開墾から田植えまで、日々の共同作業を通じて、互いの心の距離が徐々に近づくのを感じた。当初、外国人を怖がり、逃げ回っていた村の子どもたちも、いつしか私たちの乗るオートバイの音が近づくと「ヨシ!」「ジャパン!」と叫びながら裸足で嬉しそうに出迎えてくれるようになった。活動を終え、夕方近くまで子どもたちと遊んでいると「ご飯を食べていって」と、貴重な食事を振る舞ってくれ、畑で収穫した野菜を帰り際に持たせてくれた。堆肥作り、日本料理教室、手洗いの啓発活動など、この村での活動は様々な広がりを見せ、週2~3回訪れるこの村が、私にとってかけがえのない場所になっていった。

私の帰国が半年後に迫った頃、パンジェ夫人も臨月を迎えた。夫妻と生まれてくる赤ん坊について他愛もない会話をしていた時、私が冗談半分に言った「名付け親になろうか」という一言。それを聞いた夫妻は「キッキッキッキ」と大笑いしながら、「それじゃあ、お願いね」と言った。
私が所用でリロングウェのJICA事務所に行っている数日の間に、赤ん坊は生まれていた。サリマに戻り、数日ぶりに村を訪れると、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえながら夫人が私に放った一言が冒頭のフレーズだった。
冗談かも知れないと半信半疑だった私。それでも、もし本気だったらと、いくつか名前の候補は考えていた。結局、考え抜いた末に決めたのが、良くマラウィアンに聞き間違えられていた私の苗字「オオツカ」と「オスカー」。半年後には帰国する私の名前を忘れられたくないという想いと、彼女といつまでも繋がっていられるようにと、響きの良い「オスカー」に決め、その赤ん坊は「オスカー・パンジェ」になったのだった。
2009年3月に日本に帰国してから、マラウイのことを思い出さない日は一日もなく、ついに帰国から約1年半後の2010年12月。居ても立ってもいられず、プライベートでマラウイへ帰省。久しぶりにリガンガ村を訪ねた。「私の帰国後に別の名前に改名されていないだろうか…」。そんな不安も杞憂に終わった。村では2歳になり、村の誰からも可愛がられる「オスカー・パンジェ」という名の元気な女の子がスクスクと育っていたのだ。その後、2017年にもマラウイを訪れ、9歳になったオスカーと再会を果たすことができたのだった。

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2008年9月 オスカー0歳

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2010年12月 オスカー2歳

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2017年6月 オスカー9歳

次回は、私と同い年で任国外旅行にも一緒に行った仲間で、帰国後も地元で大活躍中の平成17年度2次隊 青少年活動の佐藤健太さんの思い出の一枚です。