【ペルーJICA海外協力隊派遣40周年記念インタビュー】vol.1 綿谷 章 隊員

2020年7月29日

ペルーJICA海外協力隊派遣40周年を記念し、歴代隊員にインタビューを実施しました。

氏名:綿谷 章
任地:リマ市
配属先:陸上競技連盟
職種:陸上競技
隊次:昭和55年度1次隊
派遣時期:1980年7月~1982年8月

1.ペルーの印象について教えてください

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公園での練習風景。ペルー南部タクナ(サマ)からリマに出てきてトレーニングに励んだフェリックス・イナド君。

グアテマラシティからホルへチャベス空港に到着し、タラップから降りる時、ある空気の塊がぶつかってきた。土埃が冬の霧雨で固められその上に幾重にも重なったその土が空港全体に独特の、多分、リマの匂いを漂わせていた。それは鼻をつき、正直言って好きになれそうもない匂いだった。到着が深夜だったこともあり、リマがどことなく陰鬱な街という概念を抱いてしまった。

翌日、セントロリマの安ホテルで目覚めた。脳裏にはあの空港とホテルまでの夜景が残っていた。暗闇の中リマの街並みはおぼろな様相を呈していて、人影もまばらで、まだどのような街なのか判別できなかった。ただ、暗闇の中のほのかな灯りは沈みがちな心を支える役割を担ってくれていたように思う。

リマでの第一歩、初日を振り返りつつセントロの街並みを散歩した。驚いた。意外だった。大統領府や教会など洋館がぎっしりと詰まっていた。その街路を先住の民、その末裔が我が街のごとく闊歩している。その風景が自然だったことに唖然とした。これを契機にリマ、ペルーの習慣、文化、地理などに興味をそそられ、知っていくうちに大好きなペルーになってしまった。

2.活動について教えてください

セントロを散策した翌日、1980年7月22日、国立競技場内にある配属先の陸上競技連盟と体育・スポーツ庁を表敬訪問した。連盟のサンチェス会長は私専用の机を提供し、選手たちに実技を指導するグラウンドを案内した。グラウンドはアンツーカートラックでフィールドはいきいきとした緑の芝生が敷き詰められていた。しかし、そのフィールドでの投擲競技は禁止されていた。サッカー王国南米を象徴する一コマである。その陰で細々と活動しているのが陸上競技なのだろう。全天候性のトラックがペルー国内にまだ存在しなかった。

サンチェス会長は私に、「仕事は8月1日からお願いする。それまで休んで体調を整えてくれ」と言って、二人は別れた。

7月25日。ホテルでテレビを観ていた。大統領就任式があり、フェルナンド・ベラウンデ新大統領が演説をしていた。ベラスコ軍事政権を押さえての就任だった。セントロを行き交う人々は上気して、個々に歓声を上げていた。民政の世になったのだ。目抜き通りには露店が並び賑わっていた。わたしもチュロスを買って食べた。コーヒーと共に頂くとなかなか美味しい。ところが、その夜から腹痛、それも激痛が走り、下痢がはじまり、なんと3日続いた。一人だけのセントロの安ホテルでどこにも外出できず孤軍奮闘した。

下痢も収まり、体調も戻りつつある8月1日、約束通り出勤した。意気揚々と初出勤である。連盟に到着すると見覚えのある女性秘書が私を会長室に案内した。そこにはサンチェス氏ではない別の人物がいた。お互い自己紹介をすることなくその新会長は「私はおまえを雇った覚えはない。帰ってくれ。」の一言。キツネにつままれたように、ことの顛末が理解できない私は何度も聞き返し、何故ここに来たのかを拙いスペイン語で説明した。しかし、その労力は無駄骨で追い返されることになった。私は8月1日初出勤日に所属先無しとなった。

3.当時の隊員の経験が今現在の自分に与えている影響はなんですか

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体育スポーツ庁付設体育教員養成学校の卒業イベント。卒業生は全国各地に赴任、体育教師として子どもたちの身体育成を担う。(中央帽子が筆者)

人種の堝で多様な文化が生まれ継承されてきたペルー。悲惨な歴史の上にあるペルー。それらを背景としての人の生き方、人の価値観を様々な形で見せつけられた。それは否応なく自分の生き方、価値観を問うた。質素・倹約を心掛け、質実剛健に生き、答えを求めず選択・実行で歩み、感謝と奉仕のこころを忘れず、安らぎと寛ぎを求める。こんな自分でありたいと思いつつ齢を重ねている。

4.現在ペルーで活動している隊員たちへのメッセージをお願いします

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立競技場グラウンドでの練習後のひと時。リマに到着直後、配属先が無かった時に出会った若いコーチや一緒に練習をした選手たち(左から二人目が筆者、三人目が恩人となるロナルド・ラボルグ君

無職となった私はその翌日からこの状況で自分ができることは何か、を問い続けた。その結果、只々、自分の職種、陸上競技を実践することと割り切った。毎日、国立競技場グラウンドに通い、そこでトレーニングしている選手たちと汗を流し、請われれば指導した。住居をホテルからペンションに移して、片道2時間の距離を徒歩で通った。その往復にはいつも選手たちが同行し、スペイン語の学習になった。失職から2か月後の10月6日、ペルー選手権大会が国立競技場で開催された。一緒に汗を流した選手たちも参加した。その中の一人、ロナルド・ラボルグ君が走幅跳においてペルー新記録で優勝した。彼はメディアのインタビューに対して「僕が新記録で優勝できたのは、日本人コーチのアキラ・ワタヤの指導のお蔭だ」とメッセージした(してくれた)。

翌日の新聞にそのことが掲載された。私は未読だったのだが、例の新会長から電話があり、「すぐに連盟に来て欲しい」と連絡が入った。その日、10月7日に連盟の公式のコーチとして着任した。配属先を得た。

自分の職種に誇りと愛着を持ち、大事にして、とことん磨きをかけ、そして必要とする人に提供する、奉仕するこころと行動力があれば人生なんとかなる、と確信した。

5.最後にペルーの皆様へのメッセージもお願いします

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イカ・ワカティナ合宿でのトレーニング風景。選手たちが最も楽しみ、最も苦しんだ合宿。宿泊はイカ市体育館を活用。オレンジパンツの選手はソウルオリンピックに出場したピウラ出身のリカルド・バリエンテ君。

足掛け10年のペルーでの活動の基盤を構築してくれたのは言うまでもなく協力隊活動だった。2か月遅れの配属先着任だが、着任早々地方巡回指導を開始した。全国11カ所での選手指導や指導者養成講習で多くの先生方や選手と出会い、一緒に活動し、その地方の特色、ペルーの政治・経済・歴史・料理・おどり、インカの文化・言葉など多くを教えて頂いた。今でも多くの方々と連絡し合い、お付き合いをさせて頂いている。私のかけがえのない財産である。

昨年、31年振りにペルー、リマを旅行した。多くの教え子とかつて共にトレーニングに励んだバランコ競技場で再会した。また、セビチェをつまみにセルベッサを飲み、旧友を温めた。時空を超えて、まだ自分の居場所がここペルーにあった、と実感した。ペルーの仲間に感謝の言葉を呈したい。ペルーを思わない日は一日たりともない自分が日本にいて仲間たちとこころで会話している。尊厳を抱きつつ。