【ペルーJICA海外協力隊派遣40周年記念インタビュー】vol.9 田中 敏裕 隊員

2020年12月9日

ペルーJICA海外協力隊派遣40周年を記念し、歴代隊員にインタビューを実施しました。

氏名:田中 敏裕
配属先:ペルー体育庁 卓球連盟
隊次:昭和58年度1次隊
任地:リマ市
職種:卓球
派遣時期:1983年4月~1985年12月

1.ペルーの印象について教えてください

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1985年5月プーノ市にて。プーノの小中学生を招待してパンアメリカン大会の銅メダリストのワルター・ナタン選手と行ったエキシビションの様子。3800mの高地ではボールが平地よりも速く、遠くまで飛ぶのでコントロールが難しい。

1980年代前半のペルー協力隊はスポーツ関係が多かった。特にペルー初代隊員の空手の田中さんは自分の空手クラブを運営し、ペルーに生活基盤を築く、ひときわ異彩を放つ存在だった。そして陸上の初代隊員である綿谷さんが、国際協力基金で専門家として再赴任し、投てき競技を専門とする椿原さんと一緒に日本のスポーツ分野における国際協力をリードする存在として尊敬を集めていた。そしてこのスポーツを通じた国際協力の英雄が、加藤明氏である。その死にあたり「ペルーは泣いている」と言わしめたアキラ・カトーは、ペルー女子バレーを、日本を越える世界のトップレベルに押し上げた立役者だった。ペルーのジュニアチームのコーチとして古川さんと大坂さんという二人のバレー隊員が活動していた。地方では赤塚さんが水泳コーチとして活躍し、野球コーチとして赴任した大森さんは、ソフトボールのコーチだった下西さんとよく一緒に練習していた。大森さんは専門家として再赴任して、ソフトボールのペルー代表選手だった方と結婚し、今ではリマ市で幼稚園を経営している。そんな中で、私は卓球人としての私の目標を、南米大会そして全米オープンに照準をあて、コーチ兼選手として練習に励む毎日を過ごすようになった。

2.活動について教えてください

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南米ジュニア卓球選手権大会に向けてアルゼンチンへ出発するペルー選手団(後列右からモレノ会長と監督の私)。18歳以下で金2銀1、15歳以下で金1銅1、12歳以下で銀2銅1という好成績をおさめた。(1985年10月)

ペルー卓球連盟に配属された私は、当時日系人として初めて連盟のトップとなった元名選手のグラディス森山会長の卓球普及の公約を実現するために、国立の小中学校で卓球を体育の選択授業として導入する活動を行っていた。ナショナルチームには世界チャンピオンを育てた経歴を持つ3人の中国人コーチがいて、私は地方や学校での普及活動だけでいいということだった。人生で初めて卓球してさえいればいいという環境にあって、私は自主的に平日の夕方と週末はナショナルチームのメンバーの練習相手をし、平日の夕方の練習後はペルー人コーチと夜間練習をするのが日課となった。明らかにペルーで最も練習量が多く、ペルー選手に負けることのない私は、兄貴的なコーチとしてペルー選手や卓球関係者の信頼を得るようになった。初めての南米ジュニア選手権で、元日本代表選手の古川監督の率いるブラジルに団体戦で完敗した。一度は折れた心を奮い立たせ、個人戦に入って、女子ジュニアでモニカがブラジル選手を破って優勝し、ダブルスでも準優勝、インファンティール部門でエリアナが個人と混合ダブルスで優勝して二冠を果たせたのがコーチとして一番思い出に残っている。全米オープンではクラブ選手権で私もペルーチームの一員としてプレーしてチーム優勝し、私が憧れていた当時の世界チャンピオンの江加良選手と戦って1セットを奮取することができたのが私の卓球人生の一番の思い出となっている。

3.当時の隊員の経験が今現在の自分に与えている影響はなんですか

大学時代は新聞記者になろうと思っていた。面接で目標の新聞社に落ちて、海外で生活したいと思い協力隊を考えた時は、実は難民キャンプで働こうと思っていた。大学一年の頃はカンボジア難民を救う会で活動した時期もあった。実業団入りを断って卓球と違う道を歩もうとしていた私が、協力隊に参加する道は、結局卓球隊員になることだった。ペルーでナショナルチームを引率するようになり、メディアの人々とも接する機会が増えた。いつしか取材する側よりも取材される側になりたいと思うようになっていた。日本に帰国した途端にただの人になった。国際協力を続けたかったが、スポーツ分野では可能性が閉ざされていた。私は企業を退社し、協力隊調整員としてドミニカ共和国に赴任した。その後、アメリカ留学して修士課程を修了し、幸運にも国連開発計画(UNDP)に合格することができた。ペルーの仲間に卓球していればいつか再会できると約束した私は、休みを利用して卓球活動は続けていた。パキスタンでは平和復興のためのスポーツの祭典事業を実施した。国連を早期退職した私に、ペルーの元選手たちからナショナルチーム強化のための改革を依頼されて32年ぶりにコーチとして迎えられた。日本の知的障がいパラ卓球のコーチをしていたので3か月間だけだったが、立派になった選手たちとの再会は本当に感動的だった。南米チャンピオンだったモニカ・リヤウさんは、「Impactando Vida」という卓球普及プログラムを全国100校以上で展開する女性企業家として注目されている。「目標を定めて努力することが当たり前になった」ことが私から学んだ成功の秘訣だとある貧しかった選手から伝えられた。私はこれから障害者スポーツと生涯卓球と幸福をテーマに白球を追って途上国に行きたいと考えている。

4.現在ペルーで活動している隊員たちへのメッセージをお願いします

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1985年7月14日クスコ市の中央広場で撮影。右からカルロス選手、私、パラシオス選手。ラテンアメリカトップ32のホスト国が大地震の影響でチリからペルーに変更となり、クスコ市で開催する。2週間ほどクスコで合宿した。結果は4位と5位入賞。

ペルーの卓球人生は一日一日が新しい人々との出会いと不可思議な挑戦に満ちていた。私はチャスキ"Chasqui"という隊員機関紙の編集長をしていて、隊員総会や歓送迎会を通じて情報を集めて全員に配布していた。真島先生は忍者の里出身で、ラウニオン校で日本語を教えながらチチカカ湖のタキーレ島で保健衛生活動を続けていた。私もプーノ市に卓球の友人ができ卓球普及活動を行うようになった。2017年にプーノを再訪して卓球の地域大会を主催し、チチカカ湖上の浮島でウロス族の子どもたちにピンポン講習を実施した。国際協力の現場で働く中で、多くの死にも遭遇した。自然災害だけではない、自殺爆弾やテロ攻撃による同僚やスタッフの死にも直面した。復興に必要なのは希望の灯と心の傷からの回復だと知った。否応なくこの世に生を受け、否応なく死を迎える私たちにとって大切なのは、使命感(生命の使い方)ではなく、人生観(人としての生き方)だと思う。自分の意志(Voluntad)で行動できるのは生きている時だけだ、せいいっぱい楽しめばよい。人がもっともしあわせを感じる瞬間は、誰かが自分と出会えたことをしあわせと感じてくれた時だということを、胸に刻んで。

5.最後にペルーの皆様へのメッセージもお願いします

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32年ぶりにペルー卓球連盟に招聘され来秘。企業家でスポーツを通じたSDGsへの社会貢献を目指すモニカ元選手とチチカカ湖上の先住民族の子供たちに卓球講習。酸素が少なく水草を編んだ浮島に台と足が沈んでいく。(2017年11月)

1982年のスペイン大会以来36年ぶりに、ペルーは32年ぶりのワールドカップ出場を果たし、そして2019年パンアメリカン競技大会とパラパンアメリカン競技大会を首都リマでホストした。3個の金メダルを含む計7個のメダルをペルーにもたらして、一気に檜舞台に踊りでたのがサーフィン選手団。そして日本伝統の武道である空手が、金2、銅4という目覚ましい活躍を見せ、柔道も銀1,銅2で日本とペルーの繋がりの深さをスポーツでも証明する結果となった。サーフィンと空手はともに東京オリンピックで初めて正式種目として採用され、今後の期待も大きい。オリンピックのシンボルともいえるマラソンで男女アベック金メダルという偉業はインカ帝国のチャスキのDNAの発現だろう。このインカ伝統のリレー伝信システムを日本の駅伝というタスキ・リレー競技を使って再興してはどうだろう。日本企業や政府、市民とも連帯して、"Chasqui"エキデンを恒例スポーツイベントとしてアンデスの地に蘇らせようではないか。

パラパンアメリカン競技大会でペルーが獲得したメダルは金5、銀3、銅7。国別メダル獲得数では、障がいのない部門と同じ11位だった。ペルー障害者スポーツ選手団は総勢139名で、障がいのないスポーツ選手団の592名と比べると寂しい。例えばパラリンピックでは87種目あるパラ水泳のペルー参加選手はわずか4名。30種目あるパラ卓球の参加選手も4名しかおらず、ほとんどの種目に参加すらしていない。「だれひとり、おき去りにしない」というSGDsの達成を、まずスポーツで示そうではないか。先ほど紹介したように、元卓球チャンピオンのモニカ・リヤウさんはペルー全土で卓球普及プログラムを実施している。私も日本でパラ卓球のコーチを始めており、ペルー社会のインクルーシブな未来に貢献できれば幸甚である。障害者を含むすべての人々が、"私のペルー"という国民的な歌のイントロにあるように「ペルー人であることが、誇らしくしあわせなんだ」と言えるような、そんな未来に向かって。