笑って、泣いて、たくさん助けられた。ウガンダで過ごした1年9ヶ月(前編)

2022年1月24日

第18回:網代 健人さん
(体育、2018年度1次隊、任地:カプチョルワ県セベイ)

20周年企画 隊員OVインタビュー

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【網代 健人さんプロフィール】
大学にて、中学校教諭一種免許及び高等学校教諭一種免許(保健体育)を取得、大学卒業後にJICA海外協力隊としてウガンダに派遣される。(2018年7月)カプチョルワ県で体育教員として1年9ヶ月活動。2020年3月コロナ禍での緊急帰国となった。帰国後は、長野県にて農家として活動。日本滞在中に任期終了を迎え、現在は、群馬県の種苗会社に勤務している。

(JICA)網代さんはコロナ感染拡大前にはウガンダで活動されていましたが、残念ながら、コロナのために緊急帰国となり、日本にいながら任期を終えることになってしまいましたが、本日はコロナ前のウガンダでの活動の様子を中心にお話をお聞きしたいと思います。まず、網代さんが青年海外協力隊に参加されたきっかけを教えてください。

(網代さん)大学2年生の時にカンボジアでのスタディツアーに参加し、村の小学校で運動会を行ったのが開発途上国との最初の関わりでした。実際に現地で活動する中で、自分自身が、幸せの価値を決めつけ、現地の人はかわいそうだから、何かしてあげたい、といった上から目線の態度で、ボランティアに来ていた自分に気づいたんです。この時は、情けなさで本当に心が痛くなりました。この経験から、『海外ボランティア』についてもっと深く知りたい(ボランティアって何だろう?)という好奇心が湧き、情報を集めていく中で青年海外協力隊を見つけ、参加を決意しました。

(JICA)カンボジアでのボランティア体験を経て、更なる好奇心を持たれたということですね。未知との遭遇の中で、ご自身の気づきも大きかったこととお察します。協力隊を目指されて、ウガンダに決まった時は、ウガンダにはどんな印象がありましたか?

(網代さん)ウガンダという国の捉え方というよりも、“アフリカ”という一括りの捉え方をしていて、どうしてもネガティブなイメージがありました。内戦、紛争、貧困、餓死、などなど…メディアや本などの影響かもしれません。
それと同様に、野生動物や部族(マサイ族)などの印象も強かったと思います。でも、実際に派遣された後は、当たり前ですが、ウガンダをアフリカ大陸にある一つの国として認識することができ、アフリカ各国それぞれの文化や風習にも目を向けられるようになりました。ウガンダは“アフリカの真珠”と呼ばれていますが、まさにその言葉が相応しい、緑豊かで水も豊富な活気ある国であると今は感じています。

(JICA)ウガンダでの協力隊の活動というと、イメージではお米作りなどの農業分野での支援や、病院で看護指導の活動を行うなどの保健分野のイメージも強いですが、網代さんは「体育」という職種で派遣されたんですね。配属先や活動はどんな感じでしたか?

(網代さん)配属先は、首都カンパラからバスでおよそ7時間、ケニアの国境付近にある“セベイカレッジテゲレス中高等学校”でした。活動内容としては、主に野球部の指導と体育授業を行なっていました。体育の授業に関しては、体育が「教科」としてあまりなじみのないウガンダで、近隣の小学校にも活動範囲を広げて、現地の先生達とともに体育授業の価値の向上に努めてました。その他には、課外活動として、配属先の学校で野球部の指導をしました。野球部といっても、選手集めからスタートし、ゼロから競技ルールや道具の使い方、投げ方や打ち方の技術指導も行いました。

(JICA)日本では体育実技の授業は当たり前に行われ、部活動も活発に行われていますよね。ウガンダではそんな状況じゃなかったんですね。他にも日本とウガンダの違いに驚いたり、悩まれたりすることもあったのではないでしょうか?

(網代さん)現地での活動が始まって1ヶ月程が経った頃ですね、当時は、授業の感覚やリズムが全く掴めておらず、いきなり活動で大きな壁にぶち当たってました。配属先では、体育の授業は遊びの時間のような捉え方がされており、生徒も教員も授業として認識してくれていませんでした。そのため、授業開始時は80人でスタートしたのに終了時には6人しか残っていない。(他の生徒はその辺でゴロゴロしてる)なんていう日もあったぐらいに、授業の出席率という課題に悩んでました。

(JICA)体育が遊び!それは困りますね。80人が6人というのも、日本では考えられませんね。今まで、体育が遊びと思っていた生徒からしたら、外国人ボランティアが来ても特に意識の変化はなかったんでしょうか。

(網代さん)そんな状況のグランドに、ある日、副校長先生が通りかかり、いきなり大声で怒鳴り始めたんです。私は何が起こったかわかりませんでしたが、生徒はすぐに察したようでした。私が気づいた時には、生徒たちはグランドに並べれられていて、木のムチでお尻を叩かれてました。その光景を目にし、涙が込み上げてくるのを感じました。自分の指導力のなさが原因で、生徒が目の前で体罰を受けているという現実をただただ立ち尽くして見ていることしかできなかったのです。授業終了のチャイムがなり、私は副校長の元へ謝りに行きましたが、彼はそこで、“お前のためにやってあげた、授業がやりやすくなるだろう”と言いました。一人の教員として、生徒に不利益が及ぶことだけは絶対に避けたいと心に決めた瞬間でした。

(JICA)衝撃的で悲しい出来事でしたね。文化の違いもあるのかもしれませんが、理解しがたいことも任国では多々ありますね。網代さんにとって、きっかけとなった出来事であると思いますが、その後、どんな工夫をするようになりましたか?体育の出席率や生徒の様子に変化はありましたか?

(網代さん)これをきっかけに、このままでは、ダメだと強く感じ、まずは、生徒の出席率をあげるために、体育=遊びから、体育=授業の部分を確立しなくてはと思い、授業規律などを決めていきました。体育を通して、運動やスポーツの楽しさを伝えたいという気持ちはありましたが、授業にきてもらえないことには何も始まらないと思い、少し強引にも感じましたが、学校とカウンターパートを説得し、授業の形を変えました。大きく3つ取り組みましたが、1つめは、出席票の導入、2つめは、成績表に体育を追加したこと、3つめはテストの実施です。これにより、生徒の授業への意識は少しずつ変わっていきました。今までは遊びと認識されていたものが、体育も授業、教科としての認識に変わったと思います。任期の後半には、生徒自身が授業に間に合うように声かけを行ったり、道具の使い方を注意したりする姿も確認できました。また、一番の課題であった出席率に関しても、90%近くまで引き上げることができました。

(JICA)遊びと認識されていた体育の授業が、出席率90%に!それは大きな行動変容ですね。文化の違い、習慣の違いなど任国と日本の違いは隊員活動の様々な場面で直面しますよね。後半では、具体的な活動上のエピソードなどを紹介していただきます。(後編に続く)

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日本人ボランティアVSセベイカレッジ野球部

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東京オリンピックホストタウンとのスカイプ交流会

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体育授業風景、中学生