トルコ南東部地震発生。その時、現場は。

2023.08.08

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トルコ事務所 所長 田中 優子

緊急援助の裏側で見えたもの

喧しいほどの蝉の声。8月6日は78年前に広島に原爆が投下され、日本では多くの人が平和について考える日となっています。半年前の今年の2月6日、大雪により国民教育省の通達で息子の学校も休みになり、雪雲に覆われた暗い空を見上げ、ワンオペ駐在員である私は途方に暮れていました。そんな折、午前4時17分、トルコ南東部をマグニチュード7.7の地震が襲い、同日にマグニチュード7.6の地震や大きな余震が続き、トルコ・シリア両国で5万人以上が亡くなる、この地域では今世紀最悪の未曽有の災害が発生しました。未明に不穏な予兆で目覚めた私は、地震情報を確認する間もなく、直後から飛び交う電話とメールの対応に追われました。日本では直ちに国際緊急援助隊の派遣が決定され、JICAトルコ事務所でも急いで救助に必要な資材を準備しバスに積み込みました。トルコ語と日本語の通訳も手配し、どの空港が使えるか、どの道を通って被災地に入れるかなどの情報も集め、私たちは緊急援助隊を出迎えるため空港に急ぎました。空港で緊急援助隊が到着した後は、「日本政府の命令を受けて派遣されました。救助活動の現場を割当ててください」とトルコ側の災害対策本部に訴え、震源地カフラマンマラシュの町へ。暗闇に目を凝らすと、断層が隆起し地面が割れ、目抜き通りの両側の建物が形をとどめず倒壊、カーテンや家具がむき出しになり、コンクリートが地面に斜めに刺さるような角度で重なり合う光景に言葉を失いました。「お母さんの声がします!助けてください」と最初に案内された建物で、緊急援助隊が到着するや否や住民の方が駆け寄ってきました。さっそく通訳を介した情報収集が始まります。氷点下、家族の無事を祈る人々が毛布に包まり、心配そうに救助活動を無言で見守ります。次の活動場所は、アラビア語が飛び交うコミュニティ。今回地震のあったトルコ南東部はシリアとの国境に位置し、2011年のシリア危機以降、370万人以上ともいわれる難民をシリアから受け入れています。ひとつの建物にこんなに沢山のシリア人が暮らしていたのか、と、隣のバスケットボール・コートに集まった人数に驚くと同時に、その後の緊急支援でも配慮が必要となる社会統合問題の一端を感じる瞬間でした。こうして夜を徹しての人命救出は現場を変えて何日も続きました。

刻一刻と変わる現場のニーズを把握しようと試みる中で、倒壊したビルの破片を焚火にくべながら温かいスープを紙コップで配り続ける男性に出会いました。地震で家族や親せきを失いながらも、「遠い日本から助けに来てくれてありがとう。自分にできることはこれぐらいしかないけれど」と、スープを手渡してくれました。凍える夜に悲しみを抱え、それでも自分にできることを、と自発的に活動する彼のような地元の方々に支えられて、日本の活動が進められました。野営地は、円借款事業でお付き合いのあるイルラー銀行とカフラマンマラシュ水道公社の方が公社の敷地に準備してくれました。公社の方々も被災され、建物の下敷きになって救出された職員の方もいる中、破損した水道管を調査し、必死に市民に水道サービスを提供しながら、私たちの救助活動もサポートしてくれていたのです。危険判定を受け立ち入り禁止となった自宅アパートに短時間だけ入ることを許され、家族の味である漬物の瓶を運び出している人を見かけたとき、阪神淡路大震災の際に学生ボランティアをした時、「コンビニのパンもええねんけどなぁ」と避難所で温かいものを訴えられたことを思い出しました。決まり文句のように「日常生活の一日も早い回復」を祈るのではなく、それぞれの人にとっての日常は何だろうと思いを馳せながら言葉を発しなければいけないと感じます。

日本の痛みは世界を救う

緊急援助隊による救助チームや医療チームに続き、日本は災害復旧の知見を持つ専門家集団も派遣しました。チームを受け入れた政府機関とは、地震の1週間前に「日本はどうして建物の耐震基準を建築業者に遵守させることに成功しているのか。トルコも耐震基準の強化は実施しているが、確実に施行している日本から学びたい」という希望に応え、日本の経験を共有したばかりだったのです。「東日本大震災での活動を思い出します。あの時も壊滅的な被害を受けた街並みでした」と漏らしながら調査を行う様子に、「経験の共有」は、共有する人にとっても痛みを伴うものだと気づかされたのです。日本とトルコは地理的に離れていますが、プレートや活断層に囲まれた地震国として、災害リスクの高まる地球上で同じ境遇にあります。災害国同士、お互いに経験をシェアできれば、災害発生は減らせなくても被害のリスクを減らせるはず。「日本の経験は良いことばかりではないからこそ、正直に話したい。復興計画に住民の理解を得ること、復興資金を県のみで調達することは本当に困難だった」と経験を共有し始めたのは、兵庫県の元職員の方です。各国からの救助隊が去り、現場に復興支援に向けた調査団が溢れる中、助けに来たという姿勢を作業服で示しつつ、謙虚かつ真摯に対話をする姿勢はトルコ側から暖かく受け入れられ、阪神淡路大震災の経験から学びたいというトルコ政府からの希望に繋がっていきました。理想ばかりではない復旧・復興の現実を語り継ぐ、「語り部」としての場づくりもJICAの技術協力の重要な役割です。1950年代からトルコで防災分野の技術協力を行ってきたJICAだからこそ、日本の経験を活かして、建物の耐震診断、街の復興計画、災害廃棄物処理の知見の共有についてトルコ政府といち早く話し合うことができたのかもしれません。

とはいえ、支援策がまとまるまでには時間が必要でした。3月のブリュッセルでのドナー会合に向けて、トルコ政府と国際機関はダメージ・ニーズ・アセスメントを行いましたが、壊滅的な被害を前にニーズは何度も上方修正されました。被災直後の緊急人道支援、復旧に向けた協力、より長期の復興に向けた協力のすべてのフェーズに対応できるスキームを持っているJICAはドナーの中でも稀有な存在ですが、限られた人員で緊急支援を行いながら、トルコ政府と協議を重ねて、日本の知見を共有するための技術協力や中長期的な資金協力の下地作りも行わなければなりませんでした。そんな中で、根気強く日本を招いてくれたドナーコミュニティの仲間はありがたい存在でした。中長期的には世界銀行等のドナーと方向性を統一し「地震国としての日本の知見」も組み込みつつ案件を形成することができました。

5月になり、それまで敷かれていた非常事態宣言が解かれると、被災地の自治体を支援するために被災しなかった地域から来ていた臨時知事や行政官たちが地元に戻っていきました。避難していた人々も自分たちの街に戻り生活を再開すると、住民の陳情なども増え、また、5月に大統領選挙も控えていたため、被災地の行政サービスに携わる私たちのカウンターパートにとって、真の試練がまさに始まろうとしていました。被災直後の短期的な取り組みではなく、地元に根を張った息の長い活動が自分たちの手で計画される段階に入ったことが分かりました。この段階では、行政側の人々も被災していることに配慮した心理社会的ケアや支援者支援が必要です。私たちと一緒に復興の仕事をする人々も今は気丈に働いていますが、多くの方がご家族を亡くされ自らも救助された被災者でありサバイバーだということ、また復興の過程で住民から支援のスピードや内容について非難を受けているのかもしれないということも念頭に、その人自身の状態や感情を大切に、共に働いていきたいと思います。

そっと「寄り添う」支援の力

未曽有の震災を経験しながらもトルコは大接戦だった大統領選挙を民主的に実施し、経済政策も大幅に改革し、痛みを伴う努力で復興を前に進めるべく大きく舵を切りました。JICAも日本政府のODA実施機関として、これを支援しています。7月8日に岸田首相とエルドアン大統領の電話会談が行われ、大統領再選の祝意とともに、これまで実施してきた緊急支援に加え、がれき処理や機材供与を目的とする無償資金協力、被災地の復旧・復興を支援するための有償資金協力、これらと連携した日本の知見を活かした技術協力の準備を進めていることが伝えられました。自ら被災されながらも復興を前に進めようとするトルコ政府の方々との協議が報われ、緊急支援からの半年間の様々な出来事が思い出され人知れず涙が頬を伝いました。現地には、まだまだ莫大なニーズがあり今でも日常生活は戻ってきていません。そして、ニーズは増え、変化し続けています。公的支援だけではなく一般の方の寄付を含めると日本の支援額はトップで、JICAということを除いても一日本人としてトルコの方に感謝されます。そのたび、阪神淡路大震災や東日本大震災で経験した冬から春の情景をトルコに重ね合わせて心から祈りながらテレビの映像を見ている日本人が多かったこと、トルコの救助隊が最後まで日本に残って人命救助を行ってくださったことに日本人は感謝していることをお伝えしています。これからもトルコと日本の友好関係、同じ地震国であることに根差して、各段階で起こりうる課題に寄り添っていきたいと思います。

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