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里山里海の復興に挑む 能登半島地震から2年

#11 住み続けられるまちづくりを
SDGs
#14 海の豊かさを守ろう
SDGs
#15 陸の豊かさも守ろう
SDGs

2025.12.25

石川県・能登半島には、豊かな自然と人々が共存する「里山里海」と呼ばれるエリアがあります。2024年1月の能登半島地震では甚大な被害を受け、人々の生業も一変しました。その復興に向け、JICAは自治体や被災者と共に活動しています。現地で奮闘する人々の姿を通し、震災から2年を迎える能登の今を伝えます。

カキの養殖現場に同行するJICA北陸能登復興担当の寄慶一さん

里山里海で生産者に伴走するJICA

冬の石川県・能登半島。早朝の漁港に、定置網にかかった魚が次々と揚がってきます。

「今年は猛暑で海水温が高くなりましたが、魚種や漁獲高に影響はありますか?」

水揚げした魚の選別作業を見ながら漁業事業者に声を掛けているのは、JICA北陸能登復興担当、寄慶一さんです。漁業や林業の現地調査をしながら、地域を支える生業としての付加価値を高めるため、相談に乗っています。

寄さんは、日本国内の地域課題に取り組む「地域のJICA窓口」の役割を担っています。能登の被災地では、「里山里海を活用した生業の持続可能な復興」の分野で、JICAが一定の役割を果たすことが期待されています。

大手総合商社の食品担当だった寄さんがJICAに転じたのは、2024年12月でした。10年以上勤めた会社を退職し、東京から石川県に移住した背景には、能登への並々ならぬ思いがありました。

世界農業遺産に爪痕

地震と豪雨で倒木やがれきが堆積(たいせき)した石川県輪島市の海岸

豊富な海の幸を育む日本海、広大な棚田、勇壮な祭りや伝統工芸、発酵食文化……。日本の原風景が残る「能登の里山里海」は2011年6月、国連食糧農業機関(FAO)から、日本初の世界農業遺産に認定されました。

一方で能登の里山里海は、課題も抱えていました。深刻な過疎化や高齢化で1次産業の担い手が減り、地球温暖化による自然環境の変化も、人々の生業に深刻な影響を及ぼしていました。

そこに追い打ちをかけたのが、2024年1月の能登半島地震でした。加えて同年9月の豪雨も、人々の復旧復興への希望を打ち砕きました。地割れが生じた水田は耕作放棄地となり、山は倒木と崩落で荒れました。海はがれきや土砂が流入し、魚を育む藻場は壊滅状態になりました。多くの人が先の見えない日々を過ごしています。

寄さんは言います。

「ただ元に戻すだけでなく、復興のためには地域を支える、創造性のある事業を生み出し続ける必要があります」


地震と豪雨で崩落した石川県輪島市の海辺の集落

総合商社からの転身

東京生まれの寄さんは、幼い頃から父の実家がある穴水町をたびたび訪れ、里山里海の豊かさに魅了されました。夏はキリコ祭りの手伝い。巨大な灯籠(とうろう)「キリコ」が町を練り歩く祭りは能登各地に伝わり、地域の人々の誇りでもありました。

「都会とは違い、食卓に並ぶコメも魚も生産者の顔や自然の風景とつながっています。能登の友人も増えたことで、いつか能登に帰るんだと考えるようになりました」。大手総合商社で食品畑を歩いてきたのも、里山里海の生業に関わる仕事を始めた時、地域の役に立つとの思いがあったからです。

東日本大震災ではボランティアとして被災地へ入り、大学を休学してNPOでファンドレイジングから事業運営に従事した経験もあり、能登半島地震でも発生4日後から被災地へ入り、知人らとともに被災者支援を始めました。そこで実感したのは、東北以上に深刻な過疎化と高齢化でした。

発災から半年余りが過ぎた2024年夏。多くの祭りが中止となる中、寄さんは能登島で開かれた火祭りを訪れました。そこで出会ったのが、石川県創造的復興推進課の杉本拓哉さんです。

「能登官民連携復興センター」で執務する杉本拓哉さん(左)と寄慶一さん

能登空港の利用促進などに携わってきた杉本さんは、県の「創造的復興プラン」の策定にも関わりました。生業の復興のため官民連携による組織の立ち上げを考えていた時、寄さんの能登への思いを知り、声を掛けました。

「能登のためにできることを、一緒にやりませんか?」

この一言がきっかけとなり、寄さんはJICA北陸の能登復興業務に応募し、採用されました。

2025年夏に開かれた石川県穴水町のキリコ祭りに参加する寄慶一さん

官民連携で「創造的復興」

「『創造的復興』という言葉には、元に戻すだけでなく、一つでも二つでも右肩上がりにトレンドを変えていこうという思いが込められています」

杉本さんは羽咋(はくい)市の里山で生まれ育ち、幼い頃から米作りや山林の管理を手伝ってきました。「地震で多くのスギやアテの林が崩落しました。下草刈りもされず、枝も落とされていなかったからです。日光が地面に届かないと針葉樹は根を張りません。里山里海の良さをPRする半面、守る人はどんどん減っていく。維持するための生業の収益が乏しいことも、大きな理由でした」

杉本さんは現在、県と能登6市町で設立した一般社団法人「能登官民連携復興センター(のとれんぷく)」(輪島市)で、被災地のニーズと民間の支援をつないだり、基金を活用した復興事業を支援したりする仕事をしています。


「能登官民連携復興センター(のとれんぷく)」の拠点がある、のと里山空港脇の「NOTOMORI」。被災して店舗建物を失った地元飲食店なども入居する。

寄さんもJICAの業務と並行し、のとれんぷくを拠点に県の新規事業構築に携わっています。役立っているのが、国内外で食品のブランディングや販路開拓を行ってきた、寄さんの総合商社での経験です。杉本さんが言います。

「寄さんは事業のキャッシュフローや契約はもちろん、収益を出せて持続可能な事業がどんなものかを理解しています。そのために必要なものを重視しながら、さまざまなプロジェクトや書類を見てくれているので、非常に頼もしい。『創造的復興』には、こういう支援が不可欠だと感じています」

底引き網漁からカキ養殖へ

住民にとっても、寄さんは頼れる存在です。「行政との関わり方や販売のノウハウなど、困ったことがあれば、寄さんに聞きます」。底引き網漁ができなくなった若手漁業事業者はそう話します。

漁場は温暖化の影響で藻場が激減し、震災がとどめを刺したといいます。「壊滅的な被害で、もう元には戻れない。早くから新しいことに挑戦しなければと思ってきました」

そこで挑戦したのは、カキの養殖です。カキが出す「偽ふん(未消化の排出物)」が海底に落ちると、海の生き物の栄養源となり、豊かな生態系が再び育っていく可能性があります。これにより好循環が生まれて海が再生し、再び底引き網漁ができる日が来ることにも期待しているといいます。

「地震があって、海と山は宝物だと気づきました。港に新しい人材を増やしてにぎわいを作り、若者が夢や希望を持って働けるようにしたい。そのためには、海を守りながらブランド力のある海産物を作り、世界にも販路を広げられたらと思っています」

定置網漁業に同行する寄慶一さん

JICAと能登がつむぐ絆

一方で、寄さんは「JICAが能登で培ってきたつながりに助けられている」と話します。

「SATOYAMA」「SATOUMI」は近年、国際的にも注目されています。能登の里山里海が世界農業遺産に登録された2011年以降、JICA北陸では途上国の行政官らを招き、環境保全と地域経済活動の持続的な両立を学ぶ研修を続けてきました。JICA北陸の竹田美理さんが話します。

「人間の活動の急激な増大が急速な自然環境の劣化を引き起こし、途上国の生活にもさまざまな影響を及ぼしています。能登の里山里海における自然資源の持続的な活用や地域振興は国内外で高く評価され、途上国の人たちにも有益な学びがあります」

JICA北陸では、これまで多くの研修事業を受け入れてくれた「能登への恩返し」との思いで発災直後から職員らが避難所運営に加わるなど、復興に積極的に関わってきました。また、研修員に被災や復興状況を視察する機会も作り、被災地と途上国をつないでいます。



カキの養殖を始めた若手漁業事業者は、震災後に復興状況を視察する研修員をインドネシアやフィリピンから受け入れました。「自分たちが元気になったら、彼らの国に出向いて恩返しをしたい」といいます。

研修員たちによる復興の視察

「世界のふるさとのモデル」に

復興には長い時間がかかります。JICAはその伴走者として、これからも里山里海に関わっていきます。杉本さんはこんな期待を語ります。

「JICA は研修などを通して里山里海の意義を発信し続けてくれました。創造的復興プランには『日本、そして世界中のあらゆるふるさとの希望の光』になるという目標が書かれています。復興した里山里海の姿が世界のふるさとのモデルとなるよう、JICAの発信力に期待しつつ、共に歩んでいきたいと思っています」

地震から8カ月後に開かれた輪島大祭。勇壮な「キリコ」が練り歩く

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