ラオスJICA海外協力隊派遣60周年メッセージVol5 伊藤 心吾さん(サワンナケート県/柔道/2006年派遣)
2025.05.06
私は2006年度2次隊として、2007年1月から2009年1月までの2年間、ラオス・サワンナケート県で柔道を教えていました。
サワンナケートには2007年2月に赴任し、同県の県庁所在地であるカイソーン・ポムウィハーン郡にある中学、高校の講堂内に畳を敷き指導をしていました。その後は、2007年10月に同郡中心部に常設の柔道場を開設し、そこで柔道を教えていました。
サワンナケート柔道クラブのメンバーたちと(中央に青い柔道着を着ている伊藤さん)
私が赴任する数年前にラオスの国体がサワンナケートで開催されたようで、柔道をする畳はありましたが、部員や柔道衣はなく、私がサワンナケートに派遣された初代の柔道隊員でした(※首都ビエンチャンへは1966年に初代の柔道隊員が派遣されました)。同道場で、部員集めから始め、彼らに立技、寝技等を教えました。
私が帰任後、3名の隊員が同道場で活動しましたが、いまは常駐する日本人指導者はおらず、私の教え子が指導員となり、同地では柔道が続けられています。なお、昨年(2024年)に行われたラオスの柔道大会では、サワンナケートの道場が1番の成績を収め、教え子の指導員が表彰されました。
練習風景
伊藤さんの教え子のペレ選手
伊藤さんの教え子のスーン選手
私が赴任したサワンナケートは、首都ビエンチャンに次ぐ第二の都市でしたが、柔道を始めた子らのほぼ全員が、ビエンチャンに行ったことがありませんでした。しかし、赴任時にラオス柔道大会をビエンチャンで行うことになり、サワンナケートの道場生らもビエンチャンに行くことができ、柔道を通して、彼らの視野・知らない世界を広げることができたのではないかと思っています。
また、教え子のひとりは、サワンナケートで柔道を始め、実力が開花し、ラオス初の柔道のオリンピック選手となり、リオデジャネイロオリンピック及び東京オリンピックに出場しました。また、この選手は、日本の大学に留学し、いまは日本で会社員として働きながら、柔道を続けています。
さらに、前段でも記載しましたが、教え子が指導者となり、現在でもサワンナケートにおいて柔道が続けられています。
リオデジャネイロ・オリンピックと東京オリンピックに出場したラー(シッティサン・スッパサイ)選手
ひとことで言うと、青年海外協力隊員として働くことが「夢」でした。中学2年くらいの時にJICAの青年海外協力隊という事業があることを社会の授業で知り、「日本人が途上国に行き、現地の人のために井戸を掘ったりして、途上国の発展に貢献している。」という内容に非常に魅力を感じました。
大学卒業時に、すぐに青年海外協力隊に参加したかったのですが、そんな勇気がなく、一般企業に就職しました。しかし、その夢を捨てきれず、大学卒業後3年経過後、青年海外協力隊に応募させていただきました。
私の職種は、「柔道」でしたが、柔道ではそれほどの実力はなく、現地で指導できるか不安でしたが、いままで道場で教わってきたことや講道館での技術補完研修で教わったことを基にして、ラオスで2年間指導することができ、ラオスで過ごせた2年間は、まさに「夢」の期間でした。現地での指導時に、ラオス人たちに厳しく指導してしまうことが多々あり、いまでも後悔していることがたくさんありますが、私が赴任したことにより、柔道に参加したラオス人たちに夢を与えることができたのではないかと思っております。
最後に、ありがとうございました。青年海外協力隊!そしてラオスで私の指導を受けてくれたラオス人のみなさん! コプチャイ ライライ !
「柔道」はJICAが協力隊事業等を通して、ラオスで長年にわたり協力を継続している分野の一つです。首都ビエンチャンには、協力隊事業が始まってすぐの1966年3月から柔道隊員が派遣され、現在も1名が活動しています。伊藤さんの任地であるサワンナケート県には初代派遣から40年を経て派遣されました。ラオス全体では延べ32名が柔道隊員として活躍してきました。今やラオスの柔道人口は約200人。オリンピック選手も輩出され、着実に裾野を広げています。
脈々と繋がるラオスと日本の柔道を通した絆を感じるエピソードでした。テレビ等でラオス選手を見かけましたら、その活躍にもぜひご注目ください。
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