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巻頭対談 特集 国際緊急援助隊30周年

1987年に発足した国際緊急援助隊。
脈々と受け継がれてきた情熱とノウハウがある一方で、変わり行く世界の緊急援助ニーズに合わせて国際緊急援助隊は進化を続けてきた。
その両面を知り尽くす二人が国際緊急援助隊の30年の歴史と今後を議論した。

国際緊急援助隊、30年の歴史

鈴木
日本の国際緊急援助隊が、来年、設立30周年を迎えますね。設立のきっかけは、カンボジア難民の支援でした。
小井土
カンボジア難民の流出がピークを迎えた1979年当時、日本の緊急援助は国際社会に立ち遅れていました。そこで、カンボジア難民支援のために医療チームを派遣した経験を基に、1982年に国際緊急医療チーム(JMTDR)を設立したのが、現在の国際緊急援助隊の原点です。
鈴木
国内で災害医療に注目が集まり始めたのはいつごろですか。
小井土
阪神・淡路大震災の翌年1996年に災害医療に関する研究会が立ち上がりました。ですから、国際緊急援助の方が歴史は古いんですよ。
鈴木
海外の災害対応で培った緊急援助のノウハウが日本に逆輸入され、さらに国内での災害対応を経て、対応能力が高まっていく。"内と外"の循環が生まれていますね。
小井土
JMTDR時代から重んじられてきたのは、全隊員が同じ志を持って援助に尽力することです。平時から数々の研修をこなす中で、チームとしての一体感を高め合ってきました。それは今も変わらず活動の基盤です。
鈴木
医療チームには、約1000人もの医療関係者が派遣に備えて登録してくださっています。昨年もネパール地震後に隊員の募集をかけると、一瞬のうちに定員の3倍もの応募がありました。

国際緊急援助の現場とは

鈴木
小井土先生が最初に派遣されたのはいつですか。
小井土
インドネシア・ジャワ島中部のメラピ火山が噴火した1994年、熱傷の専門家として派遣されたのが最初です。当時は医師になって10年目。救急医療漬けで、病院に住み込んでいるかのような日々でした。それが、国際緊急援助隊としての派遣で、初めて"外"に出たことで、稲妻に打たれたような衝撃を受けました。
鈴木
日常の業務から離れて活動に参加するわけですから、驚きも多かったことでしょう。
小井土
噴火から1週間後に現地入りし、約1カ月間滞在しました。火砕流でやけどをした人たちの植皮手術を現地の病院でしたんです。会ったこともない人々と同じ目標に向かって手を尽くし合う緊急援助の緊張と連帯を身に染みて感じ、医師生活に慣れるに従って忘れつつあった医療の原点に立ち返ることができました。
鈴木
任務を遂行して帰国し、解団式に出席する隊員たちは、へとへとに疲れ切っていますが、派遣前にも増して瞳が輝いているのがいつも印象的です。自分自身を見直す機会にもなっているのでしょうね。これまでの活動で印象深い経験はありましたか。
小井土
1996年にパプアニューギニアの津波被害の支援に行ったとき、一緒に手術をした現地の医師から、「日本はお金持ちで上から物を言う国なのだと思っていたが、一番早く駆け付けくれた。日本人も私たちと同じ心を持っているのだということがよく分かった。一緒に活動してくれてありがとう」と言われたんです。国際緊急援助を通じて、日本のイメージを変えることもできるのか、と喜びを感じました。

近年の動向

鈴木
昨年は国際緊急援助隊に新たに感染症対策チームを立ち上げました。また、この10月には医療チームが、世界保健機関(WHO)から国際水準を満たした緊急医療チームとして認証を受けました。変わり行く緊急援助のニーズに柔軟に対応できるように、各チームの体制や機能の整備も進んでいますね。
小井土
この30年間で災害の性質自体が変化しています。感染症対策チームを創設したのも、国際的な協力なくして感染症には対応できないという2014年のエボラ出血熱流行時の教訓からです。

【画像】

ネパール地震の際のフィールドホスピタル

鈴木
医療チームとしては、ネパール地震への派遣時から、現場で手術なども行う"フィールドホスピタル"の展開を開始しました。
小井土
そうですね。それまではフィールドクリニック、つまり診療所のみだったのが、これからはフィールドホスピタルとして手術・入院・透析もできるようになりました。日本が2000年代中頃からこのような機能拡充を検討し始めた一方、国際的な潮流としては、2010年のハイチ地震後、各国の医療チームの水準の標準化に向けた認証制度が始まりました。今回、日本の医療チームが世界で4番目の認証取得チームとなれたのも、世界に先駆けて動き始めていたからでしょう。
鈴木
医師や看護師の他にも、医療支援を支える隊員がたくさんいますね。
小井土
はい。クリニックからホスピタルになる上で、運営を支えるロジスティックス面の役割は特に重要です。医師や看護師の活動内容は、平時の仕事の延長線上といえますが、被災地でホスピタルを運営するのは、平時にはない役回りです。今後はその体制をより強化していくことが必要です。

援助体制の強化に向けて

鈴木
今後の国際緊急援助隊の方向性をどのようにお考えですか。
小井土
過去57回の医療チーム派遣で、隊員の事故やけがが一度もなかった伝統を今後も守り続けてほしいと思います。また、参加隊員の裾野を広げていくことも重要です。日本では、2011年の東日本大震災の後、3000人を超える震災関連死が発生し、被災者支援が医師と看護師だけでは成り立たないことが明らかとなりました。この教訓は、国際援助に生かしていくべきです。医療チームに関して言えば、今後はホスピタルでの術後対応も踏まえて、リハビリや栄養の専門家にも参加してもらうなど、包括的な支援を展開していきたいと思います。
鈴木
先進国で日本ほど多種の災害が頻発する国はありません。こうした災害への対応を経験した日本だからこそ分かることがたくさんあり、それを発信していきたいと思っています。加えて、平時からの国際ネットワーク作りもとても大事です。
小井土
WHOも今後はネットワーク構築に注力していくのではないでしょうか。災害医療の分野でも国際学会があり、アジアはもちろん、世界の医師たちが平時から学術レベルで情報を共有しています。日本の医療チームの派遣報告も行われているのです。JICAもネットワーク作りの協力を始めていますよね。
鈴木
はい。東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国には、災害対応ネットワークがあります。2013年に安倍総理が"日ASEAN防災協力強化パッケージ"を打ち出したことを受け、JICAはASEANに対して10年計画の資金協力や人材協力を申し出て、災害・救急医療体制の底上げとネットワークの強化を支援しています。

国際緊急援助隊の役割と今後

鈴木
私は、国際緊急援助隊はプロフェッショナルによる究極の市民参加運動だと思っています。その総合力は計り知れません。
小井土
市民参加は、国際緊急援助隊の基本理念でもあります。その意味でも、隊員の派遣は機会均等であるべきです。また、「税金を使うのだから、国内で活動すべき」との見方があるかもしれませんが、日本も災害時には国際社会から多くの支援を受けています。国内への援助受け入れと国外への援助隊派遣はセットなんです。海外で培われたノウハウは、必ず国内に還元され、国民のためになる。その循環が大切なのです。
鈴木
その通りですね。今年7月に初めて派遣され、コンゴ民主共和国で黄熱の対応に当たった感染症対策チームは、その良い例ではないでしょうか。日本では重大な感染症が流行することはまれですが、チームを設立して海外で協力することで、いつか日本でもその経験が必要になったときに生かされるはずです。
小井土
DMATとして知られる国内の災害派遣医療チームも、国際緊急援助隊のコアメンバーが中心となって立ち上げたもので、研修内容なども踏襲しています。国際緊急援助の基盤が国内の緊急援助の土台を作ったといえるでしょう。
鈴木
国際緊急援助に携わっていく上での今後の目標をお聞かせください。
小井土
今、治安の悪化により入国できない国が増えていることは、緊急援助の従事者にとっては大きなジレンマです。そのような課題もありますが、国際緊急援助隊30年の歴史を築き上げてきた先人たちの思いを大切にしながら、自分にできる最大限の協力を続けていきたいと思います。

小井土 雄一さん

【画像】独立行政法人国立病院機構災害医療センター臨床研究部長・救命救急センター長
厚生労働省DMAT事務局長

1984年に日本医科大学救急医学教室に入局後、救急医療や災害医療に従事。国際緊急援助隊の医療チームとしてパプアニューギニアや台湾など、5カ国での活動経験を持つ。現在、国立病院機構災害医療センター臨床研究部長と厚生労働省DMAT事務局長を務める。今年4月より国際緊急援助隊支援委員会委員長。

鈴木 規子さん

【画像】独立行政法人国際協力機構(JICA)理事

1981年に旧国際協力事業団(現JICA)に入団。青年海外協力隊事務局、無償資金協力調査部、社会開発協力部、国連日本政府代表部一等書記官、理事長秘書役、スリランカ事務所長、マレーシア事務所長、広報室長などを務める。2014年4月より国際緊急援助隊事務局長、今年10月より現職。