私のなんとかしなきゃ! にしゃんた 社会学者、タレント

違いを受け入れ、共に笑顔を

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私は母国スリランカで、比較的余裕のある家に生まれ、国立銀行員の父と元教師の母に育てられました。生徒会長も務めた私は、ボーイスカウトの交流旅行で日本を訪れたのがきっかけで、17歳で単身、日本に留学。そのときに頼ったのは、交流旅行で一日、ホームステイしたご家庭でした。電化製品や車など、当時のスリランカ人があこがれる物がそろっていて、私の実家と比べてもずっと豊かに見えたご家庭でしたが、私を受け入れられるのは半年が限度だと言われて驚きました。私の母は、当たり前のように近所の子どもたちを世話して、学校まで通わせていたからです。日本は物もお金もあって豊かだけれど、スリランカより他人を受け入れる精神的な余裕がないのでは、と思いました。

それでも父が家を担保に送り出してくれたのだからと、日本語学校に通い、温泉街で住み込みのアルバイトをしながら大学の受験勉強に明け暮れました。さまざまな悩みを背負って温泉街に流れ着いた人たちの優しさが、若かった私を育ててくれたのです。無事、立命館大学に合格し、留学生初の読売新聞奨学生にもなりました。

しかし、大学を卒業した1994年はバブルが崩壊した後で、留学生を採用してくれるような企業は見つかりませんでした。その一方で日本の公的機関には国籍条項があったため、応募することさえできませんでした。そこで大学院に進み、博士号を目指しながら起業。やがて大学で教壇に立つことになり、日本国籍も取得して、今に至ります。

日本で暮らして30年近くになります。最近の日本は、外国人の数が増えたという意味では国際化が進んでいますが、お互いを受け入れて生きていける余裕がなくなっているのではと感じています。

新しい価値観を受け入れるとき、人はまず相手を排斥し、次に相手の同化を求め、それでも違いが残ることに気付くと距離を取って住み分けるようになります。でも、本当に大切なのはその先にある、違いを違いとして受け入れ、共に生きる社会だと思うのです。互いの違いを楽しみ、成長につなげられるのが、強く心豊かな人なのではないでしょうか。

そもそも、国籍や生まれ育った土地がどこかということ以前に、一人一人が違う人間です。お互いが共に笑い合い、違いが生かされている"共笑"の社会でなければ、持続可能性はありません。片方だけが笑っている社会では不十分なのです。

違いを受け入れるためには、自分と異なる価値観を持つ人々と交流し、自分の視野を広げることも欠かせません。人と人との関係性を深め、未来を豊かにする人材の育成に、日本社会やJICAがこれからも積極的に取り組んでいくことが大切だと考えています。

PROFILE

スリランカ生まれ。17歳で来日して立命館大学で経済学を学び、卒業時には学部総代を務めた。博士号取得後、山口県立大学准教授を経て、羽衣国際大学教授に。テレビやラジオへの出演、執筆に加えて、社会人落語家としての活動も行っている。写真はスリランカ中部のマヒヤンガナにて、先住民族ヴェッダ族の長老と共に撮影したもの。

なんとかしなきゃ!プロジェクト

「なんとかしなきゃ!プロジェクト」は、開発途上国の現状について知り、一人一人ができる国際協力を推進していく市民参加型プロジェクトです。ウェブサイトやFacebookの専用ページを通じて、さまざまな国際協力の情報を発信していきます。