母と子の「1000日」を守る

子どもの健やかな成長は、全ての親に共通する願いだ。しかし、人生の始まりの環境が、その願いに大きく影を落としてしまうことがある。
子どもの未来を決める最初の1000日をどうやって守り抜くか、最新の知見をもとに考える。

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見えざる飢餓が子どもの成長をむしばむ

栄養不良と言われて、あなたはどんな光景を思い浮かべるだろうか。骨の浮き出した手足に浮腫で腹部が張っている姿であれば、それは急性栄養不良だ。食料の絶対的な量が足りない状態で、このまま十分な食事を取れなければやせ細って死んでしまう。誰が見ても、今すぐに食料を与えることで解決しなければならない問題だと分かるだろう。

一方で、年の割に小柄で幼く見える子どもの姿に、強い危機感を感じる人は少ないだろう。だが、それは子どもの一生をむしばむ慢性栄養不良かもしれないのだ。慢性栄養不良とは、がりがりにやせ細るほどではなくても食事の量が足りなかったり、量が足りていたとしても必要な栄養素が不足したりといった理由で陥る"見えざる飢餓"だ。大人でも、食生活の偏りでやせたり、肌が荒れたり、あざができやすくなったりといった不調を経験することがあるが、子どもにおける見えざる飢餓は、知能の遅れや虚弱体質など、一生埋め合わせのできない影響を与える。さらには、胎児のころに母体の栄養が不十分な状態だと"節約型"の遺伝子が発現し、生まれた子どもは飢餓には対応しやすいが過食による生活習慣病を患いやすい体質になることも分かってきた。

栄養不良が小さな子どもの死亡の大きな要因であり、胎児のころから2歳の誕生日までの1000日の栄養状態が子どもの一生に大きく影響を与えるという事実は、2008年にイギリスの医学誌『ランセット』に掲載された論文で一躍、注目を集めた。国際社会はこの衝撃的な情報にすばやく反応し、10年には国際的な栄養改善枠組み「Scaling Up Nutrition(SUN)」が設立されている。15年に発表された持続可能な開発目標(SDGs)でも、「5歳以下の子どもの発育不良を改善し、子どもを生み育てる年齢の女性や高齢者の栄養不良を解決すること」がターゲットとして掲げられている。その半面、明らかに命に支障を来すわけではないことから、親や周りの大人も子どもの栄養不良の深刻さを認識していないことが多い。成人・高齢者の栄養課題については子どもの問題以上に軽んじられがちで、対策を取るのは簡単ではない。

日本も抱える栄養課題 解決の鍵は身近に

「近年の栄養に関する問題は、単に先進国の飽食と開発途上国の飢餓といった対立構造ではなくなっていることに留意する必要があります」と語るのは、神奈川県立保健福祉大学の中村丁次学長だ。「先進国の中でも過食などが原因の肥満と小食・ダイエットなどによる栄養不良に問題が二極化し、途上国では富裕層の肥満が増える一方で貧困層の飢餓が解消されないという形で、一つの国の中でも問題が二分されているのです」。もちろん今の日本にも両方の課題が共存しているが、特筆すべきは貧困による飢餓を克服したことだ。

日本は第二次世界大戦後の食糧難を乗り越えるため、アメリカを中心とする国際社会からの援助物資を使って学校給食の運営に力を入れた。このことが、貧富の差に影響を受けない日本社会の栄養改善につながり、ひいては優れた労働者を社会に送り込んで高度経済成長の原動力となったと、中村学長は指摘する。

当初は援助、後には輸入という形で入ってきた小麦粉や乳製品を活用するため、日本は国家資格として栄養士を認定し、学校や医療施設などへの配置を義務化した。「伝統的な日本の食事はお世辞にも栄養学的にバランスが良いものとは言えず、戦後の貧困はその問題に拍車をかける可能性がありました。食の現場で健康的な食生活を推進する栄養士という制度は、伝統的な和食に栄養価の高い食品を導入し、多彩な食材を活用してバランスの取れた食事を取ることの大切さを多くの人が理解する手助けとなりました。ただ食材を渡すのではなく、教育や指導を通じて食習慣を変えていくことで全国に栄養改善の恩恵を行きわたらせた日本の経験は、世界が直面する栄養問題の解決に大いに役立つはずです」

食料をどのように確保し、分配するかという食料政策はあっても、食を通して人々の健康をどのように維持、増進するかという栄養政策までは作っていない国が多い。長年、世界一を誇る日本の長寿は、世界でも有数の栄養政策が育んできたものだ。そのおかげで今、私たちは自分の健康に気を付けながら、和洋中からエスニック料理に至るまで多彩な食を楽しむことができている。その経験を生かし、世界の栄養政策をリードしていくことが、日本に期待される役割だと言えよう。

編集協力:神奈川県立保健福祉大学 学長 中村丁次氏