特別インタビュー 高橋 宗也 宮城県議会議員

共に歩む、復興への道のり

東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県東松島市。
震災の経験や教訓を共有するべく、フィリピンやインドネシアなど、日本と同じく自然災害に悩む国々との交流を続けている。
震災当時、復興の最前線に立って事業を動かしてきた宮城県議会議員の高橋宗也さんに、防災に対する思いや、さまざまな国や地域と交流する意義について聞いた。

悲しみを繰り返さないために

【画像】

市民の出資で運営されている東松島市内のメガソーラーの前で

【画像】

フィリピン・レイテ島で学校の復興事業を視察した

東日本大震災の後、私は東松島市の復興政策班長として、復興計画の策定や復興事業の全体的な調整などを担当しました。事業を進める過程で感じたのは、できる限り被災者の意見を聞き、その希望を叶えるための方策を考えることが何より大事であり、一番の難しさでもあるということです。中でも、津波被災エリアからの集団移転事業では、各地域住民の代表者らを集めた意見交換会やワークショップを、数十回にもわたって行いました。行政から住民に一方的に報告するのではなく、計画を練る段階から住民を交えた話し合いを重ねたのです。その分だけ時間と労力を費やすことになりますが、最初の段階で多くの住民からの合意を得たことで、その後は大きな計画の変更もなく、移転先となる市内7団地の整備を進めることができました。

東松島市では、もともと震災前から8つの地区の自治組織を主体とした市民協働のまちづくりを推進してきました。2万5000人の集団移転という膨大な事業をスムーズに進めることができた背景には、こうしたコミュニティーの結び付きの強さがあったのだと思います。私はこれまで、震災の経験や教訓を海外の人たちに発信する機会が何度かありましたが、そのたびにコミュニティーの重要性については強く訴えてきました。

2013年に台風ヨランダがフィリピンを襲った際、私はJICAの緊急復旧復興支援プロジェクトの形成に向けた調査団の一員として被災地を訪れました。特に大きな被害を受けたレイテ島とサマール島では、住宅や建築物が破壊され、膨大ながれきが発生していました。実は東松島市でも同様の問題が起きたのですが、がれきの処理施設は作らず、市民が手作業で分別してリサイクルすることによって、処理費用を抑えることができたのです。面会した現地の市長や自治体職員に対して、同じような立場の私がこうした経験を伝えることで、「たとえ財政的に厳しい市町村のような基礎自治体でも、ちょっとした工夫やアイデア次第でできることがある」と感じてもらいたいという思いがありました。

また、現地では、強度の低いヤシの木を建物の柱に使っていたり、屋根はトタンを釘で打っただけだったりと、構造上の問題も見受けられました。にもかかわらず、被災後は元の状態に戻すだけの復旧が進みつつあったので、災害に強いまちづくりを目指す"ビルド・バック・ベター"の大切さも伝えるようにしました。当初、現地では電気はつかず、水も出ず、病人は屋外のテントで手当てを受けていました。そんな状況を目の当たりにして、東日本大震災のつらい記憶が少しよみがえりましたが、災害によって悲しい思いをする人をこれ以上増やしたくないと改めて心に刻みました。その後も毎年フィリピンを訪問し、現地の市長とはすっかり打ち解けた仲です。復興が進む姿を見られるのは喜ばしいことですし、継続的な交流の大切さを身に染みて感じています。

相互に学び合い復興に生かす

【画像】

震災後、「森の学校」をコンセプトに建てられた東松島市立宮野森小学校

【画像】

今は使われていない旧野蒜駅周辺では、震災経験を後世に伝承するためのメモリアルパークの整備が進んでいる

東松島市は、2004年のスマトラ島沖地震で被災したインドネシアのバンダ・アチェ市とも交流を続け、お互いの経験を共有しながら住民主体の復興を目指しています。現地の市役所職員を研修生として受け入れ、防災組織や、備蓄、消防団の仕組みなどについて伝えている他、漁業研修も行っています。研修で教えた東松島市伝統の「かご網漁」は、今ではバンダ・アチェ市の漁にも取り入れられているそうです。

一方、バンダ・アチェ市から学ぶべきことは、その地域を訪れる「交流人口」を回復させる取り組みです。東松島市では、震災前は110万人あった交流人口が、今では40万人まで落ち込んでいるのに対して、バンダ・アチェ市の交流人口は震災前より後のほうが増えているそうです。震災の跡地をめぐるスタディーツアーや、近隣諸国の人たちを招いた津波対策の研修など、多様な取り組みを行っていると聞き、私たちも受け入れ態勢をしっかりと整える必要があることを痛感しています。

被災地の復興を加速させたいとの思いから、今年、私は宮城県議会議員になりました。基礎自治体の復興担当者として、そして被災者、遺族の一人として、被災地の思いを県政に直接伝え、双方を円滑につなぐ役割を果たしていくことが目標です。そして、震災の状況や復興の過程を広く国内外に伝え、さまざまな国や地域と手を携えながら、これからの防災に取り組んでいきたいと思います。

高橋 宗也(たかはし・しゅうや)

1962年宮城県東松島市生まれ。東北学院大学卒業。84年に鳴瀬町役場(現東松島市役所)入りし、市復興政策課長兼環境未来都市推進室長や復興政策部長を歴任。今年5月の宮城県議会議員補欠選挙に立候補し初当選を果たす。