海の森を守り、地域社会を豊かに フィリピン、インドネシア

熱帯の沿岸域に茂るマングローブや海草は、魚たちのすみかとなるだけでなく、二酸化炭素を吸収する"海の森"の役割を果たしている。
近年、地球温暖化が進む中で、"海の森"の役割に注目が集まる一方、急速な破壊も進んでいるという。早急な対策立案に向けて、日本、フィリピン、インドネシアの共同研究が始まった。

沿岸生態系が吸収する"ブルーカーボン"への注目

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フィリピン、インドネシア

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ブナケン海洋国立公園はサンゴ礁とそこにすむ多種多様な魚でも知られ、ダイビングスポットとしても人気の場所だ

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ブナケン国立公園でのダイビング調査前。灘岡教授(左から二人目)は沖縄で講義したことをきっかけに、沿岸生態系の問題に取り組むようになった

地球温暖化の原因の一つである二酸化炭素。植物が二酸化炭素と水を使ってエネルギー源となる炭水化物を作る現象が、光合成だ。植物というと地上の森や草原を思い浮かべがちだが、海辺や沿岸部の海中にもマングローブの森があり、海草の草原がある。こうした、沿岸部の植物が二酸化炭素を吸収する能力に、近年、注目が集まっている。

「沿岸生態系が吸収し、有機物として固定する炭素を、陸上のそれと区別するために、特に"ブルーカーボン"と呼びます」そう説明してくれたのは、東京工業大学の灘岡和夫教授だ。「海の植物は陸の植物と同じくらいの量の二酸化炭素を吸収しているのですが、世界から注目されるようになったのは2009年に国連環境計画(UNEP)が報告書を発表したのがきっかけです」

これまでも、海草が豊かな漁場を形作ったり、津波や荒波が起きたときにマングローブ林が被害を抑えたりといった恩恵(生態系サービス)は知られていた。同時に、沿岸生態系の急速な破壊によって、沿岸地域の人々が将来的にこうした恩恵を失うという危惧もあったのだ。近年では、地域社会だけでなく、世界全体が沿岸生態系の恩恵に浴していることが認識されるようになった。

世界のマングローブ林の2割以上はインドネシアが占めており、同国を含む東南アジアの海洋諸国の沿岸生態系の重要性は世界的にみても高い。「インドネシア、フィリピン、マレーシア、東ティモール、パプアニューギニア、ソロモン諸島の6カ国をカバーする三角形の地域は、"コーラル・トライアングル"と呼ばれています。この地域はサンゴなどを含む海洋の生物多様性が世界のあらゆる海の中でも最も高いエリアですが、多くの人が沿岸域に住んでいて、さまざまな人間活動が沿岸生態系に大きな影響を与えている地域でもあります」と灘岡教授は指摘する。「沿岸地域には貧困層も多く、伝統漁法よりも簡単だが違法な漁業が行われたり、養殖池を作るためのマングローブ林の破壊が各地で進んだりした結果、沿岸資源の過剰利用に歯止めがかからないのが大きな課題です。かといって住んでいる人を追い出して広大な保護区を作るわけにもいきません」

研究から政策立案まで 地元社会と共に歩む

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インドネシアのスラウェシ島北部に浮かぶブナケン海洋国立公園の海草群落

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フィリピンのブスワンガ島。海沿いの豊かな森も、沿岸生態系に大きな影響を与えている

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フィリピンのパラワン島では、プエルト・プリンセサ市長を迎えて会議を開いた

今回、灘岡教授をリーダーとする日本の研究者たちは、フィリピン、インドネシアの2カ国の政府機関や大学などと共に沿岸生態系とブルーカーボンの実態を調べ、沿岸生態系の保全を地球温暖化対策につなげるための「ブルーカーボン戦略」の政策提言を目指す壮大なプロジェクトを開始した。SATREPSプログラムによる、"BlueCARES"と銘打ったプロジェクトだ。フィリピンではすでに国家ブルーカーボン委員会の設立に向けた動きが進んでおり、インドネシアでも海洋資源の維持・管理を政策に取り入れる動きが高まっている。コーラル・トライアングルの国々にとって、海洋生態系の保全は切実な課題なのだ。一方、日本にはこれらの国と比べて面積が少ないとはいえ、南部にはサンゴ礁やマングローブ林に恵まれた島々があり、それ以外の地域でも海草が幅広く分布している。さらには沿岸地域に住む多くの人々の生活と沿岸生態系が深く結び付いているのも、両国との共通点だ。

灘岡教授は2年前まで、フィリピン大学をパートナーに、SATREPSプログラムによる別のプロジェクトとして同国内の6つの地域で沿岸生態系保全に関わる調査を行っていたが、1カ所を除くすべての調査サイトでは、沿岸資源の過度の利用が原因で生態系が大きなダメージを受けていた。この問題を解決するために調査チームが心掛けたのが、地元の人たちと共に解決法を考えることだ。「どれほど素晴らしい調査結果や論文が出たところで、実際に行動するのは地元の人たちです。そこで、どうすれば地元の持続的な発展と沿岸生態系の保全を両立させられるか、一緒に考えることにしました。6カ所で計30回以上の地元会合を行い、そこで分かったことを調査研究方針に反映してプロジェクト成果を地元に還元するようにしたのです。今回も、早いうちから地元の人たちの意見を聞き、生態系保全策の実現に結び付けるための布石を打っていきたいと思います」と、灘岡教授は話してくれた。

調査の結果をもとに実際の対応策を考えるに当たって、重要な鍵となるのがコンピューターシミュレーションだ。海洋生態系のさまざまな要素を考慮した大規模シミュレーションのため、この夏に稼動が始まった東京工業大学のスーパーコンピューター"TSUBAME3.0"が活躍する予定だ。シミュレーション用モデルの作成を担当している東京工業大学講師の中村隆志さんは、「今回のプロジェクトでは、最終的に両国沿岸域の8割の地域をカバーすることを目的にしています。規模の大きさも一つのハードルですが、シミュレーションは計算の仕方次第でどんな結果も出せてしまうという落とし穴にも注意を払っています。計算結果が現実と乖離しないよう、しっかりと現場をこの目で観察し、確認していきます」と話す。

中村さんは、もともと趣味のスキューバダイビングをきっかけに、海洋生態系について研究する道を選び、このプロジェクトに関わるようになったという。一方、灘岡教授も、かつて琉球大学で講義を行った際、課題として出したレポートの中で、地元の学生たちの多くが赤土の流出による海の被害を取り上げたことが、沿岸生態系に注目し始めたきっかけだった。昨年の海水温の世界的な上昇で、石垣島近くにある日本最大のサンゴ礁・石西礁湖の7割が白化により死滅したともいわれ、こうした沿岸生態系の保護は差し迫った課題だ。東南アジアの海を守るための研究は、日本の海を守り、ひいては世界の環境を守ることにもつながる。