Voice 森 忠彦 毎日新聞編集委員

微笑みの国の明日へ

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リハビリセンターではお年寄りのケアが続いていた。前国王の喪中のため、スタッフには黒い服が多かった。「信頼あつい国王のためにみんなで一緒に何かをやるという意識が強い」と副町長。これもタイらしい伝統文化の一つだ

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同センターには青年海外協力隊として派遣中の理学療法士、八木靖彦さんの姿も。「一緒に生活していると、こちらの方が癒されます」

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とある高齢者社会福祉開発センターには234人の入所者が。多くが以前は独居状態だった。90歳のオボエさんは「日本の軍人にバナナをあげたら喜んでくれたよ。トウモロコシもタバコも好きでねえ」と昔話をする。最高の“微笑み”に出会えた

「微笑みの国」と呼ばれる常夏の国タイが、急速な少子高齢化に見舞われているという。アジアでは日本こそが「少子高齢化の先進国」だと思っていたが、推計によるとタイでは10年後には人口減少が始まり、さらにその10年後には日本を上回る少子高齢時代に突入するそうだ。すでに現地では、これを見越した高齢化対策に関する日本の協力事業が始まっていた。

バンコク郊外にあるノンタブリ県バンシートン町は人口1万余り。かつてはどこにでもある農村だったが、近年、都市化の波が押し寄せて核家族化と少子化が進む一方、医療の進歩によって高齢化が著しい。現在、住民の約3割が60歳以上の高齢者で、この傾向はさらに強まるとみられる。JICAは2007年からここをモデルケースとして医療や福祉、介護の基盤づくりに取り組んできた。13年から今年8月までは「要援護高齢者等のための介護サービス開発プロジェクト(通称LTOP)」を行うなど、日本の介護システムを参考にしたタイ型の介護ケアシステムの実験が続いている。

「少し前まではどこの家も10人くらいの家族が一緒に住んでいた。大半が農家なので、普段の生活も集落内で済み、子どもやお年寄りの面倒は家族や姉妹が見てきたものだ。ところが、もはや大家族はなくなり、子どもがいても1人か2人。結婚しない若者も多くなった。サラリーマン家庭が増えたため、昼間はバンコクに出掛けてしまう。家に残ったお年寄りの面倒を家族が見るという時代ではなくなってきた」。寺院の一角にある町立の高齢者リハビリセンターで、自ら日本の介護状況を視察した経験もあるというヨドサック副町長が、住民の生活環境の変化を説明してくれた。

どこの国でも生活レベルが向上するとライフスタイルの変化や教育費の負担などから少子化が進むものだが、ASEANでもトップレベルの経済成長を遂げているタイも例外ではないらしい。理由の一つにHIV/エイズの流行によって避妊の習慣が強まったことも影響しているというのは、ちょっとした驚きだったが…。

経済成長とともに高齢化が進み、医療費が増加するのも日本と事情は同じだ。ただ、タイでは現在、基本的な医療は無料(税負担)であることや、日本では「介護」に含まれるケアの一部が医療の中に組み込まれている点などは、医療保険や介護保険という社会保険制度でこの問題に対応してきた日本とは異なる。あえて言えば、国民の医療費負担がまだ軽く、介護の発想もなかった高度経済成長期の日本を思い浮かべてもらうと分かりやすいだろう。決定的に違うのは、30〜40年の時間をかけてゆるやかに経済成長し、じわじわと少子高齢化が進んだ日本と比べ、急速に発展しているタイではこの社会問題が一気に押し寄せているということなのだろう。

現在、このセンターには61人のケアワーカーが在籍し、中核となるケアマネジャーが作成したケアプランに基づいてセンター内の設備を使ったリハビリを手伝ったり、訪問介護などを行ったりしている。ただ、驚くことにほとんどが無償ボランティアで、手当ても交通費も支給されていないという。現地でLTOPを担当してきたJICAタイ事務所の鍛治澤千重子所員によると「予算が少ないタイでは、このボランティア精神こそが最大の財源」という。都市化が進んでいるとはいえ、町ではまだ地域コミュニティーのつながりが強く、信仰あつい仏教社会ならではの「功徳」の習慣がある。「他人にいいことをすれば自分の喜び、徳となる」という考えがこのボランティア精神の礎にあるらしい。

とはいえ、今後の急速な高齢化を考えると、高齢者介護を奉仕活動だけに頼るのは限界がある。タイ政府でも現在、どういう形で国民に負担を課すのかという検討が進んでいる。私は90年代の日本で介護保険が検討されたころに新聞社で厚生省を担当したことがあるが、あのとき、「介護なんてのは日本では家族、特にお嫁さんの仕事だった。どうすれば全国民に負担をお願いできるのか」と葛藤していた政府の姿を思い出す。

「ボランティアの精神はできるだけ維持していきたいが、それにも限界がある。やがてはスタッフにも一定の経費を出さなければならなくなるだろう。国も現在、どういう制度がいいのか、悩んでいる」とヨドサック副町長。

地域事情が異なる国内6カ所で進んできたLTOPが一段落した今秋からは、退院後のリハビリに地域や病院が関わる包括的ケアのプロジェクトが始まるという。日本の経験と知恵がタイの伝統文化の中でどう生かされるのか。一方で、タイのボランティア精神から日本が学び直すことも少なくないだろう。「微笑み」のヒントは、お互いの国に隠されている気がする。

(注)「Voice」の内容は、筆者の個人的見解に基づいています。

Profile

森 忠彦(もり ただひこ)

1963年福岡県生まれ。86年、毎日新聞社入社。地方支局を経て政治部。95〜96年に厚生省(当時)担当。外信部、ブリュッセル特派員、毎日小学生新聞編集長、紙面審査委員などを経て、2015年からオピニオン面担当編集委員。