すべての子どもに予防接種を パキスタン

麻しんやジフテリアなど、ワクチン接種によって予防可能な疾患が近年も流行しているパキスタン。
すべての子どもが予防接種を受けられる社会を目指し、過酷な環境下で現地の関係者と協力しながら、保健人材の能力強化や人々への啓発にまい進する、JICA専門家と開発コンサルタントの女性2人を追った。

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山岳地帯・ナラン地域の巡回接種サービスに同行する瀬古さん(左から5人目)。食事もお祈りの休憩も取らずに8時間山道を歩く。女性の社会進出が極端に少ない同地の活動では、紅一点になることが多い。「日本人女性がプロジェクトに関わることで、ジェンダーステレオタイプにも風を吹き込むことができるかもしれない」と瀬古さん

誰一人取り残さずに社会全体で確実に防ぐ

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ハイバル・パフトゥンハー州

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LHWの研修で予防接種の仕方を学ぶ女性たち。地域の母子保健を守る貴重な存在だ

1960年、日本でポリオが大流行した。風邪に似た症状の後、手足に麻痺(まひ)が現れる感染症で、日本では小児麻痺として知られている。生ポリオワクチンの導入により事態は収束し、その後1980年の1例を最後に、国内では現在まで野生のポリオウイルスによる新たな患者は出ていない。それでも今なお、予防接種法の下、日本でポリオの予防接種が実施されるのは、旅行者などを通して海外からウイルスが持ち込まれる危険性があるからだ。自分自身を守るとともに感染症のまん延を防ぐために、文字通り"すべての人"が予防接種を受けることが欠かせない。

パキスタンは現在もポリオが発生している数少ない国だ。同国は1978年に「拡大予防接種プログラム」を開始し、以来、ポリオをはじめ、麻しん、結核など10の疾患の予防接種を推進してきた。しかし、予防接種率がなかなか上がらなかったことから、2006年に日本に支援を要請。同年からJICAの協力で、5歳未満の子どもの死亡の主な原因となっていたポリオを含む感染症に対する予防接種プロジェクトが開始された。

対象地は、アフガニスタンと国境を接するハイバル・パフトゥンハー州(KP州)のハリプール県。同州の予防接種率の低さの背景には、山間部など医療施設へのアクセスが困難な地域の存在や予防接種事業を実施するための人材不足、予防接種に対する人々の偏見、女性を取り巻く文化的な課題など、さまざまな要因がある。日本はこの地域でのプロジェクト実施に加え、国連児童基金(UNICEF)やアメリカの財団法人「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」との協力の下、パキスタンにおけるポリオワクチンの調達やその接種事業を支える資金援助も実施し、予防接種率の向上を多角的に支援してきた。

未接種児を探して 道無き道を行く

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ナラン地域の子どもたち

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ナラン地域。10月の巡回接種サービスでは68人のワクチン未接種児を見つけ、接種を行った。巡回接種サービスの度に新たな未接種児を発見することは、漏れなく予防接種することの難しさを物語っている

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KP州の2015年の予防接種の完全接種率はわずか53%。複数回にわたってワクチン接種をする必要性を知らない人も多く、啓発が重要だ

KP州では現在、ハリプール県での予防接種率増加の成果をもとに「定期予防接種強化プロジェクト」が実施されている。州内3県を重点支援地域とし、2歳以下の子どもがポリオをはじめとする10の感染症に対する7種の定期予防接種、計6回をすべて受けられることを目指す活動だ。

プロジェクトは、首都イスラマバードに長期滞在するJICA専門家の総括の下、異なる分野を担当する開発コンサルタントが一時滞在の専門家として断続的に合流するかたちで進められている。JICA専門家の瀬古素子さんは、プロジェクトの総括を務めつつ、現場の最前線で活動に従事する"プレイング・マネジャー"だ。「昨年10月にマンセラ県保健局チームに同行し、電気も水道もないナラン地域への巡回予防接種サービスの実施支援とその活動のモニタリングを行いました。標高2400メートルを超える地域に点在する村にサービスを届けるには、幹線道路から徒歩で谷を下り、吊り橋を渡って岩肌を登っていく他ありません。彼らが巡回接種を行うための計画作りなどを通して、住民が医療施設にアクセスすることが困難な地域にも、確実に予防接種を届けられる体制を整えることが重要です」と瀬古さん。

パキスタンでは州の保健局の下、レディ・ヘルスワーカー(LHW)と呼ばれる女性たちが、コミュニティーで予防接種の普及員を務める公的な末端保健サービスがある。しかし、ナラン地域にはLHWが配置されていない上、電波も届かない。さらに、文字を読める人も少ないため、ビラなどで情報を届けることができず、集落の人々に自発的に街へ出て予防接種を受けてもらうことは至難の業だ。だからこそ、保健局が出向いて行う巡回サービスが大事だが、州や国にはそれを実施するための政策やマニュアルがない。そのため、このプロジェクトで得られた成果や教訓が今後の体制整備に生かされる予定だという。

瀬古さんは、集落に辿り着いた先にも活動の難しさがあると話す。「保守的な文化が残る地域なので、保健局の男性職員たちが家々を訪問すると女性たちは姿を隠してしまうんです。でも、山道で遅れを取っていた私が後から到着すると、妊婦や妊娠可能年齢の女性たちが姿を現し、そこで初めて本人や家族に予防接種を受けるように説得できるようになるんです。どんなにへとへとになっても、彼女たちとその子どもの命を守ることにつながっているのだから、登ってきたかいがあるというものです」

地域を知り粘り強い啓発で 信頼を接種につなげる

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ヘルスセンターを訪問した瀬古さん(左)。LHWによる家庭訪問記録や啓発結果を見ながら、どのような活動の支援が接種率の向上につながるか意見交換する。最前線の現場の意見を聞く貴重な機会だ(写真提供:朝日新聞社)

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機材の入ったバッグを抱えて、点在する集落で啓発と予防接種活動を行うLHW。女性と子どもたちが元気で暮らせる村にしたい-その一心で山道を行く

一方、啓発活動を担当する植木光さんは、株式会社タック・インターナショナルに籍を置く開発コンサルタントだ。「予防接種率の低さの要因はいくつもあり、それらが複雑に絡み合って受診の障害となっています」と植木さんは説明する。例えば、女性の行動制限が厳しい地域では、母親の知識が向上しても、子どもに予防接種を受けさせるかどうか決めるのは父親だということが少なくない。また、地域の実力者などから、"ワクチンを接種すると病気になりやすい"などの間違った情報が広がることもある。

「私の役割は、そうした阻害要因を分析して、予防接種に対する人々の社会的・文化的な障壁を取り除く啓発活動のモデルを作り、それを関係機関が実施していけるように能力向上を支援することです」。そう話す植木さんは、地域を熟知した現地のNGOや行政機関と連携を図って、宗教指導者や部族長などに向けて健康教育を実施したり、男性が家にいる時間に合わせた巡回予防接種活動を計画したりするなどの環境づくりを行ってきた。一人の未接種児も見落とさないためには、そうした"地域を知る"努力と洞察力が不可欠だ。

プロジェクトの活動の中でも、マンセラ県で行ってきたLHWの研修は、特に大きな成果を挙げている。彼女たちの多くは、母子に予防接種を推奨する立場にもかかわらず、これまでに予防接種に関する研修を受けたことがなく、十分な知識を持っていなかった。そこで、プロジェクトでは県保健局の予防接種担当官らが講師となり、3日間の研修を県内各地で実施。予防接種の意義やワクチンで予防できる疾患の知識、予防接種推奨時期などを伝えるとともに、接種の技術指導も行った。

現在、研修受講者の人数は県内846人のLHWの実に8割を超えている。研修を終えた地域は、そうでない地域と比較して、より高い割合で子どもたちが予防接種の推奨時期にヘルスセンターに受診に来ているといい、知識を身に付けたLHWたちが効果的な啓発を行っていることが見て取れる。

「彼女たちは、血圧計や体重計などの入った重いバッグを抱えて、山岳地帯や真夏の灼熱の砂漠を歩き、一軒一軒回って母子の健康状況を診断しながら、予防接種の重要性を伝えています。ある母親は当初、予防接種を拒否していましたが、LHWが何度も訪問して根気良く説明を続けたことが信頼の獲得につながり、子どもを連れて片道2時間かけてLHWと一緒にヘルスセンターに予防接種を受けに来てくれました」と植木さん。彼女たちの不断の努力が啓発活動に果たす役割は計り知れない。

資金援助の効果を引き出す技術支援

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LHWの研修で、研修担当のローカルスタッフとグループワークの内容を確認する植木さん(手前右)。植木さんはこれまで、カンボジアやアフガニスタンなど紛争地域での活動に従事してきた。「困難な状況下でも人々が潜在的に持っている強さや相互扶助の力を学ばせてもらっている」と語る

KP州は2016年から他国や他の援助機関からの資金援助を得て、公立保健施設に配置するワクチン接種者や医師などを大幅に追加採用し、予防接種サービスの強化拡大に努めている。しかし、その多くは、専門学校を卒業したばかりであるため、基礎的な予防接種の技術から、担当する地域での予防接種計画の策定方法、予防接種率を上げるための啓発の手法まで、幅広い内容の研修が必要だ。

そこで、プロジェクトでは新しく採用された医師やワクチン接種者など700人以上に予防接種の技能研修を実施した。瀬古さんは、「研修で知識や技術を伝えることはもちろんですが、彼らが覚えたことをそれぞれのヘルスセンターで実践できるようになることが大切です。そのため、私たちはヘルスセンターに足を運び、改善指導を行って予防接種の効果を高めるようにしています」と話す。こうした能力向上支援によって、他の援助機関による資金援助の効果も最大限に引き出す活動が、このプロジェクトの強みでもある。

国際協力の魅力は十人十色

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学校での予防接種の啓発活動。予防接種の重要性を学んだ子どもたちは、それを家族に伝達してくれている。最前列の女の子は将来医師になりたいと話す。未来を担う彼女たちに期待したい

このプロジェクトに参画するパキスタン人スタッフ11人は、安全上の理由で日本人の訪問が禁止されている地域での活動を担う貴重な存在だ。こうした環境下での活動を統括する瀬古さんは、自身の役割をこう話す。「日本から来る開発コンサルタントの方々が、派遣期間内に最大限に活躍できる環境を整えておくことが重要な一方で、日本人が訪問できない地域が多い分、活動は現地スタッフの目と耳、感覚が頼りでもあります。彼らの安全確保や、現場で適切に技術を伝えられるようにプロジェクト従事者の能力強化を行うことも私の役割です」

瀬古さんは、国際協力の仕事は毎日が発見や驚き、学びの繰り返しだと語る。同じ感染症分野でも、国、課題、メンバーが異なれば、常に新鮮な刺激に満ちているからだ。一方、植木さんが実感しているのは、国際協力は相互扶助だということ。東日本大震災発生当時に滞在していたアフガニスタンでは、現地のプロジェクト関係者や結核患者までもが「何かできることはないか」と気遣ってくれたからだ。きっと、国際協力に携わる人の数だけ、魅力の捉え方があるに違いない。私たちは多様な人の力を結集して初めて、社会を動かし、人々を健康かつ笑顔にする大きな変化を生み出せるのだ。

JICA専門家

瀬古 素子さん

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瀬古 素子さん

プロジェクトでの役割

チーフアドバイザーとしてプロジェクトの活動を率いる。現地政府に対する政策提言や援助協調なども担当。

プロフィール

1998年に米国の大学院で女性学修士号を取得。2000年にジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)として国連機関に派遣された後、正職員として国連機関で勤務。2007年から3年間、JICA長期専門家としてザンビア派遣。その後、再び国際機関での勤務を経て、2016年からJICA専門家としてパキスタンに駐在。

ある日のスケジュール

時間 スケジュール
8:00 イスラマバードのプロジェクトオフィスに出勤。メールチェック
9:00 プロジェクトの3つのオフィスをテレビ電話会議で結び、情報共有と打ち合わせ
11:00 業務調整専門家と予算執行状況の確認
13:00 現地スタッフを昼のお祈りに送り出した後にオフィスで昼食
14:30 予防接種分野の支援機関・連邦政府と定期ミーティング
17:00 夜のうちに読むべき資料をオフィスで印刷し、帰宅

開発コンサルタント

植木 光(ひかる)さん(株式会社タック・インターナショナル)

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植木 光さん

プロジェクトでの役割

定期予防接種率を高めるための啓発活動モデルを策定し、その実施を通じて現地関係機関の能力向上を図ること。

プロフィール

看護師として10年間病院に勤務した後、オーストラリアの大学でヘルスプロモーションを学ぶ。その後、青年海外協力隊(看護師隊員:スリランカ派遣)、国際保健分野のNPO法人職員を経て、オランダで医療人類学の修士号を取得。2010年以降、アフガニスタンとカンボジアでJICA保健プロジェクトに携わり、2017年より現職。主任研究員として勤務する傍ら、人間総合科学大学で非常勤講師として『看護国際協力論』を担当。

ある日のスケジュール

時間 スケジュール
6:00 アボダバード出発。マンセラ県研修実施ヘルスセンターに向かう
8:00 到着後、研修の準備
9:00 研修開始。講義やグループワーク、実技支援などを行う。ヘルスセンターの予防接種実施状況をモニタリング
13:00 研修トレーナーやヘルスセンターのスタッフと昼食を取りながら、研修や予防接種活動の振り返り
16:00 研修終了。アボダバードへ移動
17:00 到着。残務整理の後、帰宅