フードバリューチェーン 農業経営の新時代

「食べるための農業」から「売るための農業」へ。今、途上国の農業は大きな転換期にある。
キーワードは「フードバリューチェーン」。ブラジルのセラード開発を例に挙げながら、日本大学教授の溝辺哲男さんが農業開発のあるべき姿を語る。

取材協力:日本大学 生物資源科学部 溝辺哲男
文:松井健太郎 写真:光石達哉

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今、途上国の農業において、単に農作物を生産するだけではなく、市場を見据え、付加価値を生み出すための農業への転換が図られている。そこで重要となるのが、日本では以前から取り組まれている「フードバリューチェーン」という考え方だ。農作物はいくつかの段階を経て食卓に上るが、「投入財の供給」「生産」「加工と保管」「輸送と流通」「販売」の各段階で、コストを削減しながら付加価値を生み出そうというのがフードバリューチェーンの目指すところだ。

「途上国のフードバリューチェーンとして参考に挙げたい事例は、ブラジルのセラード地帯の農業開発。1970年代にスタートしたJICAの協力事業です」と、長年セラード農業開発の調査を行っている日本大学生物資源科学部教授の溝辺哲男さんは言う。

「セラード農業開発は、日本の面積の約5.6倍にも及ぶブラジル中央部の広大な原野を対象に農業生産を行う事業で、開発の背景には1970年代の世界的な穀物価格の高騰がありました。特に1973年のアメリカの大豆禁輸政策は日本に多大な影響を与えました。当時の田中角栄首相は、輸入先の多角化を図るためブラジルを訪問し、日本とブラジル両国政府でセラード農業開発に合意したのです。日本側は、JICAを筆頭に官民によるオールジャパンでセラード農業開発に取り組んだのです」

1970年代にフードバリューチェーンという言葉はなかったが、その後のセラード地帯の発展は、フードバリューチェーンそのものであった。溝辺さんは、大豆の生産地となったバイーア州西部地域を例に挙げる。

「バイーア州西部で生産した大豆は、おもに穀物メジャー企業が買い取り、原料(豆)の状態で輸出するほか、加工用に販売したりしています。加工用としては、大豆から油を作り、油を搾った後には家畜の貴重なタンパク源となる大豆かすが生産されます。この大豆かすは、輸出されるほか、域内の養鶏場や鶏肉加工企業に販売し、配合飼料として使われ、鶏肉が生産されています。このように、大豆の1次加工、2次加工による製品のほか畜肉製品や乳製品の生産も行われ、地域全体としてアグロインダストリー産業が発展しているのです。また、加工の各段階を経るごとに付加価値は高まっています。同地域におけるバリューチェーンの最終段階の総価額は、大豆の生産段階に比べて約11.4倍にも上る価値を生み出しています。

加えて、大豆生産に必要な投入財(種子、肥料、農薬、農業機械など)を供給する農業関連産業(前方産業)もバリューチェーンの形成に伴って発展が促されます。このような農業形態こそが、現在の途上国が目標としているフードバリューチェーンと言えます」

こうした取り組みがセラードの多くの地域で行われることになり、その結果として雇用が生み出され、自治体の税収増加によって道路、上水道、学校、病院などの多様な社会インフラが整備されることも溝辺さんは指摘している。

「そんなセラードのフードバリューチェーンは今、次のステージを迎えています。産業クラスター化です」と溝辺さんは言う。クラスター化とは、関連産業や企業の集積化のことで、たとえば、大豆生産地に飼料会社や食肉加工企業のほか、包装容器などの関連企業が隣接して集積することを言う。

「クラスター化することで、関連する企業間の連携が図られ、生産コストの削減、生産効率が改善され、付加価値の高まりと競争力の向上が期待されています」

セラード開発が始まって40年以上が経つ今、日本はその恩恵をどれほど受けているのか-溝辺さんは答える。

「現在、セラード産の大豆やその加工品の多くは中国に輸出され、セラード開発の基礎作りに貢献した日本がその恩恵を受けていないかのように見えます。けれども、セラード開発がもたらした最大の効果は、大豆の国際市場価格を下げていること。もし今、セラード地帯での大豆生産がなかったら、日本が他国から輸入する大豆の価格が上昇していた可能性があります。つまり、セラード開発によって大豆の国際価格が低位安定化し、その結果として大きな裨益(ひえき)効果や恩恵を、日本は受けているのです」

途上国への農業開発協力は、自国にとっての利益も重要だが、その協力によって世界市場のバランスがどのようになるのかという広い視野を持って行うことがより大切だと指摘する。フードバリューチェーンの構築においても、地域で完結するだけではなく、よりグローバルな展開を可能とする開発手法が望まれるのだ。

教えてくれた人

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溝辺哲男さん

日本大学生物資源科学部
国際地域開発学科 産業開発研究室 教授
溝辺哲男さん

農業開発計画策定のためのフードバリューチェーンと産業クラスター政策に関する研究が専門。1980年から2010年まで開発コンサルタント企業に勤務し、国際協力機構(JICA)、アジア開発銀行、米州開発銀行の農業・農村開発プロジェクト専門家やプロジェクトリーダーを経験して現在に至る。