「人間の安全保障」と「質の高い成長」

SCENE1 保健医療 「生きる力」を与える母子手帳

JICAが掲げる2つのミッションについて、具体的な姿を通して紹介する。

みんなに安心、安全を

命を育む母、生まれてくる子、見守る父。
母子手帳は、母子の健康記録として、また母親自身が知識を持って子を育み、命と健康を害する脅威から身を守るツールとして、世界中で大いに役立てられている。

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誰もが理解でき、実践できる情報を届ける

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中東やアフリカを中心に、長年にわたって母子手帳の普及に努めてきたJICA国際協力専門員の萩原明子。ガーナで母子手帳を作成し普及に関わって3年目になる。

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ガーナでは母子手帳配付が始まったばかり。今まさに全国各地の約1,000人のヘルスワーカーが母子手帳の使い方の訓練を受けている。

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病院に常駐するヘルスワーカーは、妊娠がわかった女性にカウンセリングをしながら母子手帳を手渡している。

日本が世界に発信してきたものに母子手帳がある。JICAの協力により今や世界29か国で年間900万冊が発行されている。母子手帳とは妊娠初期から乳幼児期までの母子の健康を記録する大切なものだが、JICAが普及に協力してきた途上国の母子手帳は記録だけにとどまらない。ページを開くと、妊娠期の過ごし方、乳幼児の危険を知らせるサイン、父親の育児参加の重要性などが多様なイラストとともに紹介されている。さながら「見て楽しく学べる」本のようだ。その理由をJICA国際協力専門員の萩原明子は次のように話す。

「母子手帳の情報はどれも非常に大切ですが、その情報を誰もが理解できるよう表現し、中身を説明しながら手渡してこそ初めて意味があります。『これなら私にもできる。やってみる』、母親のそんな意思決定を手助けできる内容に仕上げることに気を配りました」。

「人間の安全保障」には、人々を保健医療などの社会サービスの欠如から守るという考え方がある。サービスを強化すると同時に、受益者である住民が、自らの健康改善に努めることができるようにすることも「人間の安全保障」の重要な視点だ。現在、萩原が母子手帳の普及を行っているガーナでは、以前から妊婦には妊婦手帳、子どもには子ども手帳が使われていた。しかし、妊婦や母親には、体調の異変が起こった時に何をどうすればいいのか伝わっていないという課題があった。

「母親に情報がしっかり伝われば、いつ受診すべきか自分自身で意思決定ができるようになります。母親に自信と責任感が芽生えます。命を守るために医療機関を受診し、ヘルスワーカーに相談するようになります。母子手帳が医療サービスと母親との距離を縮め、より健やかに生き抜くためのエンパワーメント(能力強化)ツールになるのです」。ガーナでは母子手帳を使って、受診の重要性や母親の役割を丁寧に説明できるヘルスワーカーの育成を進めている。まずは約1000人を指導者として育成し、全国各地のヘルスワーカーにその技術を広めていく予定だ。

ケニアやカメルーンで国際母子手帳会議が開かれ、ウガンダなど他のアフリカの国々でも普及が進んでいる。母子手帳は、家庭と医療機関や行政をつなぐツールとしても重要な役割を果たしていくはずだ。

未来の母子手帳の役割を広げるために電子化も検討されている。電子化されれば生涯の健康記録として活用することができる。多言語国家のガーナでは電子媒体を利用して少数言語を話す母子にも情報を伝えることができる。人間が安心して安全に生きていくためのパスポートとして、母子手帳は進化しようとしている。

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理解しやすく取り組みやすいようにイラストを多用したガーナの母子手帳。意図的に父親も描かれ、妊娠と出産、出産後のケアのサポートをするように促す。

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母子手帳の普及が始まって10年経ったパレスチナでは、20~30%だった産後健診率が60~70%まで上昇し、それに伴い乳児死亡率も急激に下がった。

「人間の安全保障」

JICAがミッションのひとつとして掲げる「人間の安全保障」は、人々を貧困や紛争、災害などの脅威から守り、一人ひとりの人間が可能性を実現する機会と選択肢を手にし、自ら脅威に対処できるようになることを目指している。そのためにJICAは、開発途上国の政府が持続的に人々を脅威から「保護」し、人々のニーズに的確に応える行政サービスを提供する体制や能力を獲得できるよう支援するとともに、人々が自ら問題を解決し、自立して生活を改善していけるよう、地域社会や人々の「能力強化」に努めるなど、包括的な協力を展開している。

たとえば保健医療分野での協力は、人々が安心して生存し、人間らしい生活ができる状況を作ることを支援するものだ。母子手帳の活用やそれに関係した指導は、母親や家族が自ら意思決定し、生き抜くための能力の強化を手助けする。その際、貧困層や難民など、社会的に弱い立場にある人々が取り残されないようにすることが重要だ。JICAは途上国の政府がそうしたサービスを提供できるよう体制の構築や能力の強化を支援する。災害という巨大な「脅威」から人々を守る防災分野も同様だ。人々が生活や仕事で利用するインフラ事業でも同様に、人々を中心にすえ、人々に確実に支援が届くよう努めている。

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元JICA理事長 緒方貞子

日本政府は、1990年代から「人間の安全保障」をその外交方針に取り入れ、2015年に定められた「開発協力大綱」では基本方針にすえている。その下で、国連難民高等弁務官時代(1991~2000年)から長年にわたって「人間の安全保障」を提唱し、2003年にJICA理事長に就任した緒方貞子は「人間の安全保障」のJICA事業における実践を推進した。JICAは、人々を中心にすえ、そのミッションとして「人間の安全保障」の実現に努めていく。

世界保健機関(WHO)が「母子の健康に関わる家庭用記録に関するガイドライン」を発表

2018年9月13日、JICAがWHOに働きかけて策定に協力してきた「母子の健康に関わる家庭用記録に関するガイドライン」が公表された。

「母子の健康に関わる家庭用記録」とは、妊産婦や母親そして子どもの健康に関する情報を記録し、それらの情報をサービス利用者である母子やその家族、サービスを提供する保健医療施設や保健医療従事者が共用できる文書のこと。これは保健医療施設ではなく、家庭で保管されることにその特徴があり、世界には、母子の記録が一体となった日本の母子健康手帳(母子手帳)や、妊娠・出産の内容に限った妊産婦ケア記録(妊婦手帳)、子どものみを対象とした手帳(子ども手帳)、子どもの予防接種のみを記録するカードなどがある。

ガイドラインでは、JICAが20年以上にわたりインドネシアで協力してきた母子手帳の普及と効果の研究結果が、その活用効果を科学的に証明する事例のひとつとして採用された。JICAがインドネシアやパレスチナ、ガーナなど開発途上国の現場で蓄積してきた経験が、今回のガイドライン策定に大きく寄与している。今後、このガイドラインによって、母子の健康を改善・維持するために母子手帳が多くの国で導入されることが期待される。