経済を主に水力発電と天然資源の輸出に頼るラオスは、さらなる発展を目指して中小企業や産業人材の育成に力を入れる。
「ラオス日本センター」は、日本のビジネスノウハウを提供して、ラオスの発展に貢献している。
1980年代後半、ラオスはそれまでの計画経済から市場経済への移行に着手した。市場経済は民間人が自由に競争することによって発展するものであるため、人々には自らを経済の主体として考え、行動する力が求められる。そこでJICAは、市場経済を支える人材の育成のため2001年に「ラオス日本センター(注1)」を開設した。以来、ラオスの産業人材育成機関のパイオニアとして、多くの優秀な人材を輩出し続けている。
日本センターは多くの講座を設けている。日本型経営の理論と実践を教える「実践ビジネスコース」や、日本でモノ作りに携わった経験のある日本人講師が経営戦略やマーケティングを教える「経営塾」などがあり、期間は2年と長期のものから数日間の短期集中型のものまで多岐にわたる。これまでの受講者数は1万7000人を超える。
(注1)2001年に「Laos-Japan Human Resource Development Center」を開設。その後2010年にラオス国立大学の学部に昇格し、「Laos-Japan Human Resource Development Institute」と改名した。
これまでおよそ30ものビジネス講座を受講したシーフォン・タビサイさんは「理論や知識も重要ですが、問題に対する考え方を学べたことがなによりも役立っています」と話す。現在でこそ縫製業やカフェの経営など複数の事業を手がける彼女だが、大学で学んだのは畑違いの政治学だった。経営や生産管理などの知識は、ほとんど日本センターで身につけたという。「一見解決できないように思える問題も、小さな問題に分解すれば解決策が見つかるという手法が新鮮でした。実務経験豊富な先生方は、相談事への回答も的確で、実体験に基づく適切なアドバイスはつねに受講生たちを感化するものでした」と話す。
現在タビサイさんはごみ収集事業の立ち上げを計画している。ラオスでは、事業計画書などの作成方法を知らないために、融資を受けられない事業者が多くいるそうだが、タビサイさんは経営塾で学んだ知識を生かして順調に準備を進めている。縫製業から異業種に挑戦するきっかけとなったのも日本センターだったという。
「グループディスカッションでさまざまな事業案を出し合い検討するうちに、ラオスには多くのビジネスの可能性が広がっていると思えるようになったのです。私がたくさんのコースを受けているのも、実は仲間から新しい知見を得るため。事業の課題や新しいアイデアを議題に上げると、自分では気づくことのできなかった解決策や盲点を指摘してもらうことができます」。講義というよりコンサルティングを受けているのと同じ、と笑うタビサイさん。経営者ぶりが板についている。
また、「MBAコース」での学びを生かし、経営の合理化に取り組む卒業生もいる。家族が営むスーパーマーケット「Jmart」で働くラマイ・ゲオサワンさんは、入店当時の様子を次のように話す。「以前は、何をいくらで仕入れたかという帳簿の管理も、仕入れたものがどこに何個あるのかという在庫の管理もしておらず、欠品や余剰が日常茶飯事でした。すべてがそのような調子で、経営の実態を客観的にとらえ、改善していこうという意識がなかったのです」。
ゲオサワンさんは旧態依然とした経営からの脱却に奮闘した。大きな成果を上げたものに人材管理がある。「母は古いタイプの経営者で、従業員に一から十まで指示を出していました。これでは経営者として重要な仕事にじっくりと取り組むことができません。私は、まずは話し合いから始め、従業員にカイゼン(注2)の考え方などを伝えて彼らが当事者意識を持てるようにしました。今では現場のことは現場の責任者に任せられるようになりました」と話す。従業員の裁量を大きくしたことは、モチベーションの向上にもつながっている。業績は順調に伸びており、近いうちに新店舗をオープンする予定だ。
(注2)生産現場で行う作業の見直し活動で、現場の従業員が中心となって解決を図る点が特徴。
育成した産業人材と日本企業をつなぐのも日本センターの役割だ。ラオスには140社以上の日本企業が進出しているが、日本センター所長のブルンアン・ドゥアングンさんは「日本センターを訪れる日本企業の数は近年とみに増えており、今後ラオスへの投資は増加していくと思います」と話す。日本センターでは現在でも、インフラ状況や治安、日本企業のパートナーとなりうるラオス企業などについての情報提供や、日本語を話せる人材登用への協力などさまざまなサービスを提供しているが、今後はそういった取り組みにさらに力を入れ、日本企業とラオス企業のネットワークの構築を支援していくという。
ラオス国民の平均年齢は約22歳。若い彼らの成長意欲の高さも発展の追い風だ。ドゥアングンさんは、「市場経済への移行が進み、この10年で起業家を目指す学生の数は約10パーセント増えました。日本センターへの期待もこれまで以上に大きくなるでしょう。それにしっかりと応えられるよう、人々とともに成長してゆきたいと思います」と展望を語った。
「印刷所の営業をしていた頃、お客さんから販促グッズとしてシャツのプリントを頼まれたことが縫製業を始めたきっかけです。調べてみると、ラオスには国外の注文を受ける工場はあっても、自国の注文を受ける工場はほとんどありませんでした。『誰もやらないのであれば自分がやる』という気持を胸に、前向きにチャレンジしています」
「家業を手伝うために日本の大学で経営を学びましたが、実際に働いてみるとまだまだ学ぶ必要があると感じ、MBAコースに参加しました。従業員の労務管理は日本で経験したアルバイトも参考にしています。シフト制や給与明細の発行など、個人事業でここまでやっているところはラオスではめずらしいと思います」
電力会社の人事担当。「MBAコースは経営学修士を取得でき、さらに日本式の経営を学べることに魅力を感じて受講を決めました。カイゼンを授業で知った翌日、デスク周りの書類を一斉に整理しました。作業環境が快適になったのはもちろん、今やるべき仕事がなにかも判断しやすくなりました」。
ラオス商工省勤務。知人の勧めでMBAコースに参加した。「ライン生産の考え方を採り入れ、出力した資料をページごとに山を作ってまとめていたところ、それを見た上司がとても驚き、同僚にもその方法が伝わりました。小さなことであっても、よい取り組みは実践すれば周囲に広まり、全体の効率がアップするのだと思います」。
緑豊かなラオス国立大学の敷地内にあるラオス日本センター。ビジネス人材の育成のほか、日本語教育の普及や文化・相互交流の促進にも取り組む。
1998年にオーストラリアの大学を卒業後、ラオス農林省に入省し、日本が支援する地域開発事業に携わる。2000年、日本の政策研究大学院大学に留学し、国際開発の博士号を取得。2005年から日本センターに勤務。
JICAはラオス以外でも市場経済化を目指す国々で日本センターを支援しており、メコン地域では現在、4か国5か所に広がっている。カンボジアとベトナムの事例を紹介しよう。
カンボジアでは起業意欲が高く優秀な人材が多く育っている。カンボジアとベトナム、ラオスの3か国合同で開催した「リージョナルビジネスプランコンテスト」では、1位と2位をカンボジア日本センターの卒業生が受賞した。このセンターでは優れたビジネスプランの実現を加速するため、ビジネス面、金融面の支援を行うアクセラレータープログラムを実施しており、特に成⾧意欲の高い起業家をサポートしている。
ベトナムには"チャイナプラスワン""タイプラスワン"(注3)の活発化により、現在1,700社を超える日系企業が進出している。それに伴い、製造業は日本企業が求める品質を追求して年々レベルが向上。かつて、日本企業のニーズは部品調達や委託生産が主流だったが、技術が向上した現在では、「ベトナム企業に部品を売りたい」「共同開発したい」といったニーズも高まっている。2018年7月に、ベトナム日本センターは経営塾の受講者と日本企業との商談会を開き、その後契約に至った事例も出ている。
(注3)製造拠点を中国、タイのみに構えることによるリスクを回避するため、アジアの他の国への分散を図る、日本企業の投資戦略。
リロ・パナソニック エクセルインターナショナル上席コンサルタント。日本メーカーのベトナム現地法人の設立に従事し社長を務めた。2007年、「ベトナム日本センター ホーチミンシティ」の所長に任命される。2019年4月より、メコン地域および中央アジア地域で、ビジネスコースの業務実施契約コンサルタントの総括を務める。
メコン地域にある日本センターは設立から十数年が経ち、日本との架け橋としてその名前が着実に浸透している。ビジネスコースの内容は、日本の発展の経験をもとにした"日本的経営"を掲げつつ、各国のニーズに合わせて発展してきた。2019年からビジネスコースへの講師の派遣を総括する藤井孝男さんは「他の援助機関も支援を行うなかで、私たちにできることは何かを考えるようにしています。"日本的経営"の手法は時代の流れとともに変化していますので、それもふまえて、質の高いカリキュラムを全センターで提供していきます」と話す。
かつて自らも経営者であった藤井さんは、各国の日本センターで実施している経営塾の発案者でもある。「メコン地域の国々が目標に掲げる工業化のためには中小企業の育成が不可欠です。企業が変わるために、リーダーが変わらないといけません。長期的な視点に立った経営を行える産業人材の育成に、今後も努力してまいります」。