【不定期シリーズ】J-menに聞く(JICA筑波で働く人たち)

JICA筑波 研修業務・市民参加協力課(企業等長期社会体験研修) 茨城県常総市立水海道中学校国際アカデミー教室担当
教諭 藤木慎介さん

J−menに聞く」,今回は,茨城県教育委員会からの研修生という立場で,9月より3ヶ月間JICA筑波の研修業務・市民参加協力課にて勤務した藤木慎介さんにお話を伺いました。

国際アカデミー教室

写真(1)文化祭で行った国際アカデミー教室の海中サンバ

「常総市は,人口64,000人のうち,外国人が4,000人,総人口の約6%を占め,その多くがブラジル人という特色のある町です。私が普段勤務する水海道中学校にも,約30名の外国籍生徒が通学していて,そのうち10数名が日本語が不十分なため特別に授業を行っています。国際アカデミー教室は,外国籍生徒の進路実現のために個別指導を行う教室です。私はブラジルで覚えたポルトガル語を活かして,そこで彼らの指導にあたっています」写真(1)

藤木さんとブラジルとの深いつながりは,今に始まったことではありません。

プロサッカー選手を目指してブラジルへ

写真(2)当時の地元の新聞記事に登場
記事には「サムライ」と書かれています。

写真(3)ロッカールームのGKのラウロと藤木さん
ラウロは6年後クラブワールドカップ世界一に

写真(4)住んでいた部屋と坊主頭の藤木さん

写真(5)東日本大震災の復興イベントで、OBチームとして元日本代表チームと試合

「教員になる前は,サッカー選手。ポジションはセンターフォワードです。栃木SCやギラヴァンツ北九州(J2リーグ)に所属していました。大学では国際関係学を専攻。入学時,サッカー部は4部の弱小チームでしたが,毎年4部→3部→2部と上がって行き,4年生の時には大学リーグの得点王を取りました。周りにはJリーグのスカウトから声のかかる選手もいましたが,自分には声がかかりませんでした。就職しようと考えていたとき,大学のサッカー部のブラジル人コーチに『ブラジルに帰る。チャンスがあるから一緒にブラジルに行かないか』と誘われました。」

22歳,プロサッカー選手の夢をあきらめられず,藤木さんはブラジルに渡ります。写真(2)

「連れて行かれたのは,コーチの故郷サンパウロの郊外モコカという小さな町にあるプロチーム。練習生契約でしたが,シャワー(水)の出る選手寮の部屋を与えてもらい,食事以外はすべてチームがもってくれました。サンパウロ州2部リーグに所属していて,選手の9割が1部リーグからレンタルで来ている若手のチーム。リーグ戦38試合全勝。レベルの高い環境でした。2006年インテルナシオナルSCでクラブ世界一なったGKラウロも当時チームメイトでした。」写真(3)

「練習が始まると,毎日が実力の世界。突然1部に呼ばれる選手,クビになる選手。午前中一緒に練習していた選手が,午後クビになってバスで帰って行く。仲の良い選手が荷物をまとめるのを手伝ったこともありました。落ち込んでは開き直る毎日で,コーチにも「ジャパ(お前)はやらなくていい」と練習から外され,よくチームメイトに笑われました。試合ではパスも満足に貰えず,悔しくてチームメイトが起きる前に毎朝練習をしました。道具を持ち出すとバレるので,ペットボトルに砂を詰め,それを並べてコーン代わりにして。午後の練習が終わると,夕方からはユースの練習に参加させてもらいました。終わって寮に戻る頃には,プロの選手は食事を終えていて,残り物しかない。ご飯と豆ばかり食べていたら,時々,見かねて料理長が目玉焼きを焼いてくれました。」写真(4)

「サッカー以外でも色々とありました。寮は3mの壁に囲まれていて,夜は窓に鉄のシャッターを閉めて寝ていました。それでも時々、シャッターに石を投げつけられたり,誰かが窓を激しく叩いたりしました。ピストルの音が聞こえた時は本当に怖くてベッドの下に隠れました。他には虫や下痢にも悩まされました。練習中,「暗いなぁ」と思って上を見ると3mほど頭上に蜂の大群。グラウンド一面が蜂なんです。しばらくみんなで地面に伏して。それから水が悪いのか,ほぼ毎日下痢でした。」

そんな時,藤木さんを支えてくれたのはブラジルの日系人の方々でした。

「モコカは小さな町でしたが日系人コミュニティがあり,日本人がサッカー留学に来たということで,パーティーを開いてくれ,巻寿司や刺身など日本食をご馳走してくださったり,差し入れを持ってきてくださったりと大変親切にしていただきました。家にはNHKが放送され,小さな川もあるような日本庭園や畳の部屋があり,設置されたカラオケセットで日本の演歌を一緒に歌いました。ブラジル社会に馴染みながらも,祖国としての日本の心を忘れずに生活する姿に,命をかけて海を渡り,苦労を重ねていつかは日本に帰ることを信じて努力してきた移民の方々の姿が重なり,自分も『絶対にプロになる』と励まされました。」

帰国後,藤木さんは見事,150人が受けた栃木SCのトライアウトに合格。けれども勝負の世界は厳しく,4年間の現役生活の後,27歳の時に引退を決意しました。写真(5)

「なかなか試合にも出られず,プロでも当時それだけでは生活するのはやっとでした。次のキャリアを考えて,筑波大学で体育の免許を取得していた時に,今の学校の高橋校長先生と出会いました。」

当時,常総市教育委員会にいらした高橋校長先生は,ブラジル人生徒の増加とその対応が問題となっていた水海道中学校に藤木さんを講師として呼びました。

「初めて案内されて水海道中学校に行ったとき,ブラジル人生徒は教室に入らず,校舎の裏に隠れていたり踊り場にたむろしたりしていて,日本人や先生方とも一触即発の状態でした。」

そんなブラジル人生徒も,翌年藤木さんが正式に水海道中学校に採用されるころから,次第に日本の学校生活に馴染んでいきます。それから6年が経ち,昨年・一昨年と10名いた外国人生徒の高校進学率は100%。

「僕はブラジルが好きなんです。ただそれだけです。ブラジルでは苦い思い出もありましたが,ブラジルの方は一人ひとりの心は本当に暖かい。会ったばかりでも、家族のように接してくれるんです。」

「今こうしてまた再びブラジルとつながりを持って仕事ができることに,あの時,ブラジルで,日系ブラジル人の方々に親切にして頂いた恩返しの機会を与えられたような不思議な縁を感じ,感謝の気持ちでいっぱいです。また,高橋校長先生をはじめ,理解のある先生方・保護者の方々,そして素直な子どもたちに恵まれ,素晴らしい環境で仕事をさせていただいています。ただ,外国人との間には依然として偏見,差別,文化や習慣の違いから地域でも摩擦があります。まだまだ高校などに進学しても,受け皿としての教育環境の整備も十分ではありません。」

そういった日頃の取り組みから,今回また高橋校長先生に薦められるかたちで,藤木さんはJICAでの企業等長期社会等研修に申し込みました。

「『目的をもって進む強い意志には偶然が微笑む』父の言葉ですが,これまでも何かをやっていて分岐路に立つと,よく周りの方々の力に助けられて物事が進むことがあるんです。もともとフォワードですから,いつもチャンスをうかがっています(笑)。」

JICAでの経験を学校現場へ

写真(6)勤務するJICA筑波市民参加協力課メンバーと

写真(7)JICAでの勤務中の藤木さん

「JICAでは,本当に貴重な経験をさせて頂きました。恥ずかしい話ですが,これまでJICAについては,青年海外協力隊くらいしか詳しい事業内容を知りませんでした。けれども,JICAでの勤務を通して,無償・有償資金協力などのような大規模な援助や,研修員受入れ事業などの技術協力人と人との顔の見えるものまで,様々な事業があることを知りました。」写真(6)

「先日のフィリピンのレイテ島を襲った台風災害では,国際緊急援助隊の派遣についてもJICAが行っているということを知ることができました。国民に知られていないだけで,国際社会に貢献している非常に大きな組織なんです。」

「出前講座で研修員に同行していろいろな学校に行くことも多いのですが,国や地域による文化・風習の違いなどが聞けて,研修員の話は非常に興味深いです。日本との違いに気づく,すると身近なことから世界とのつながりが見えてくる。先日発足した「いばらきESD実践研究会」では,まさにそういった身近なことから世界を考えるきっかけをもち,世界の持続可能な開発のため,自らの心や行動の変容を促すことを目的としています。学校現場に戻ったら,子どもたちが,国際的な問題の理解から自ら考えて行動の変容へとつなげていけるような教育のために,JICAでの経験を生かしていきたいと思っています。」写真(7)
*ESD:持続可能な開発のための教育

学校に戻られたその週には,ブラジル総領事も招待したブラジル人学校と日本人生徒との交流フットサル大会を予定されているそうです。国際理解教育の実践を進めていく,藤木さんの今後に期待です。