Interview 48 川上 貴美恵さん(愛知県西尾市出身)

現在の所属先:社会福祉法人せんねん村
日系社会青年海外協力隊 ブラジル 日本語教師(2005年6月~2007年6月)

JICA海外協力隊への応募のきっかけは何でしたか?

最初は、電車の中吊り広告を見て青年海外協力隊を知りました。「国際協力」は、当時の私には縁遠いような響きのある言葉でしたが、募集している職種や活動内容が多岐にわたることを知り、興味を持ちました。そして、地域のボランティア教室で海外出身者の日本語学習のお手伝いをしていたこともあり、参加してみたいなという気持ちが徐々にわいてきて、思い切って応募しました。

JICA海外協力隊としての2年間は、どのような活動を行いましたか?

私が赴任した地域は、ブラジルのサンパウロという有名で大きな町からバスで6時間くらい揺られていく町でした。コーヒーとサトウキビ栽培が有名な町で、時期によっては、コーヒーの白い花が一面に咲くのが見られたり、あまい赤い実がびっしりと木に実っているのも眺めたりすることができました。そんな町に住む日本人移民が立ち上げた日系人協会が運営する日本語学校で、私は日本語教師として活動しました。学習者は、6歳~60代の方まで、学習の理由も目的も様々でした。協会付属の語学学校で、協会の行事には子どもたちといっしょに日本語での挨拶をしに行ったり、歌を披露したり、絵を描いたりしました。ブラジルは、日本の23倍の広さがあり、隣町の行事に参加するために、数時間バスに揺られていくなんてことも、よくありました。

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子どもたちと祭りのブース準備をする様子(テープを出そうとしている右から2人目が川上さん)

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日本語教師の集まりへ参加している様子(右端でメモを取っているのが川上さん)

任期を終えて帰国した後、現在のお仕事を選んだ理由やそのお仕事に巡り合うまでどのような道をたどりましたか?

ブラジルでの活動を終えた直後は、すっかり燃え尽きてしまっていたというのが正直なところでした。ブラジルでの生活と活動は、紆余曲折ありつつも充実していましたし、現地のJICAスタッフもあたたかくて気軽に話のできる方でした。すっかりブラジルという国のファンになっていたので、少しでもブラジルに関わるような仕事ができたらいいなとぼんやりと考えていました。しかし、あてがあるわけでもなく、JICAの就職相談にでかけて話を聞いていただくこともありました。ちょうどその頃、帰国後の手続きや報告をするために、何度か西尾市役所を出入りしていたときに、「多文化共生社会を作っていくために協力してくれる人を探している。」という情報を入手し、初めて話を聞きました。ブラジルの日本語学校で学習をしていた子どもたちの顔が一気に思い出され、この仕事ならブラジルと日本を行き来する人たちの役に立てるかもしれないと感じ、仕事させていただくことになりました。

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子どもたちと和菓子を作っている様子(調理のフォローをする右から2人目が川上さん)

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日本語学校で勉強する子どもたちのスピーチ大会の様子)

JICA海外協力隊として過ごした2年間で経験したこと、それらの経験から学んだことで、今の仕事や人生に役立っていること影響を与えたことなどありますか?

2年間の活動を通して、ブラジルという国の広さや多様性を肌で感じ大いに感動しました。その中で最も大きな気づきは「言葉や文化が違っても、皆同じようなことで笑って、怒って、泣く。人は、人。」ということです。当たり前なことかもしれませんが、それはとても重要な気づきでした。ブラジルは、先住民と世界からの移民で成り立っている多様性に富んだ国です。そういった国に身を置いたことで、逆に人の本質が見えやすくなったのかもしれません。その気づきは、帰国してからの仕事の仕方にも影響を与えています。現在は、ブラジル出身の人たちだけでなく、ベトナムやフィリピン、インドネシア、ペルー、ネパール、中国出身の皆さんとつながりがありますが、ステレオタイプで人を判断しないという姿勢が自然と身についているのは、ブラジルでの活動で得たことの一つです。

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現在の所属先における授業風景

JICA海外協力隊として「海外の開発途上といわれる国が抱える課題にボランティアとして取り組むこと」と、「日本の自分が育ってきた場所や住んでいる地域の課題に取り組み元気にすること」は遠いように感じる人もいらっしゃるかもしれませんが、共通する点を教えてください。

前述したことと重複しますが、言葉や文化が違っても、同じようなことで人は泣き笑いします。ですから、ボランティアも活動する社会やコミュニティにおける課題や当事者の気持ちを理解することはできるはずです。それを前提として、どんな課題があるのか、解決するためにどんなものが使えるのか、どんなプロセスだったら地元の人たちと同じ歩幅で取り組めるのか、どうしたら協力者を得ることができるのかなどを考えることは、日本で課題を解決するために考えていくことと本質的には同じだと思います。活動する国は日本ではありませんから、得られる情報や物資の制約はあるかもしれません。しかし、考えを人に伝えて協力者を作ることで、意外なところへつながったり、協力を得られたりすることがあります。また、反対に、「課題を解決するためには、これだ!」と、独りよがりに物事を進めて孤立したことや地元のニーズに合っていないために賛同を得られなかったこともあります。一人だけの力で仕事を進めていくなんて無理なことだと身に染みました。

最後までお読みくださったあなたへ。私は帰国してから、周りの友人に「いいね、そういうの。本当は、私もやってみたかった。今更むりかな。」なんて言葉を何度も聞きました。協力隊の仲間には、既婚者もいましたし、休職して参加した人もいました。協力隊には特別な人が応募しているのではなく、関心のあることに一歩踏み出した普通の人たちが参加しています。等身大のあなたが活躍できる現場が世界にありますよ。

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活動拠点であった日本語学校入口にて(デニムのジャケットを着て、右端に立っているのが川上さん)

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現在の所属先における授業風景