Interview 14 杉原 慶樹さん(岐阜県揖斐郡在住)

現在の所属先:杉原酒造株式会社
青年海外協力隊 ミクロネシア連邦 養殖(1998年7月~2001年9月)

青年海外協力隊への応募のきっかけは何でしたか?

大学4年生の時に、西表島の水産試験所で一年間研究していました。大学卒業後の就職をどうしようかという時に、教授や周りの方々から青年海外協力隊の制度について伺い、すぐに応募しました。大学を卒業してすぐに駒ヶ根の訓練所で訓練を受け、7月にはミクロネシア連邦に赴任しました。
ミクロネシア連邦についてはそれまで全く知らなかったのですが、応募当時にミクロネシア連邦が1番人気と聞いていたので、じゃあ僕もという感じで応募しました。派遣されるまでは当然訪れたこともなく、どこに存在するのかも知りませんでした。

青年海外協力隊としての3年間は、どのような活動を行いましたか?

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シャコガイの養殖指導

現地の水産庁職員として、資源量調査とシャコガイの養殖及び指導、販売先の交渉等を行いました。ミクロネシア連邦は4州にまたがっているのですが、首都ポンペイ州にある水産庁に派遣されていました。ミクロネシア連邦へ派遣された同期は10名ほどでしたが、養殖の職種での派遣はわたし一人でした。
大学を卒業してすぐの派遣でしたが、経験のあるなしという点でそこまで大変だとは思わなかったです。それはやはり、大学4年生の時の1年間の西表島での体験が大きかったと思います。自分の大学だけでなく、色々な方が熱帯産の昆虫や農業などを研究していて、過酷な場所だったので、そこでの経験が協力隊に行ったときに役立ったかなと思います。

ミクロネシア連邦滞在中、プライベートでは、サッカーの指導を行っていました。ミクロネシアは2か国語(英語とミクロネシア語)が話されています。もともと言葉がすごく苦手で、コミュニケーションを取りづらかったので、サッカー経験は無いんですけど、サッカーだったらどこの国にもあってコミュニケーションが取れるのかなと思い、「サッカーやるから集まれ!」とスタートしました。ただ、ミクロネシアにはそのころサッカーがなくて、ボールを手にもって走る子がいたというくらいだったんです。
ミクロネシアに大学があって、そこの大学の先生が一緒になって「サッカーチームを作ろう」と言ってくれたので、代表チームを作りました。代表チームといっても当時は1チームしかないんですけど。サッカーボールについても、当時、岐阜県の高校の使わないボールを寄付してもらいました。ゴールポストは、水道管で作りました。そこに魚のネットをつけました。魚のネットは水産庁にはたくさんあったので。
このサッカーチームには小学生も高校生もいました。その時にキーパーをやっていた子が、シドニーオリンピックの時に、ミクロネシア連邦のマラソン代表として出場したんです。シドニーオリンピックで、最後門がしまりかけた瞬間に入ったのがキーパーをやっていた彼なんです。

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手作りのサッカーゴール

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サッカーチーム結成!

任期を終えて帰国した後、現在のお仕事を選んだ理由やそのお仕事に巡り合うまでどのような道をたどりましたか?

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お酒造りをする杉原さん

帰国して1年ほどは、鹿児島県でベトナムなどの外国人に対するエビの養殖指導を実施していました。その仕事もJICAからの紹介で、その後、海外でも養殖指導を行う話も出ていたのですが、ちょうどその時に実家の酒蔵の経営が厳しいということで、戻ることにしました。
それまで全く酒造りに関わったことがなかったので、広島県の醸造試験場というところで数か月お世話になり、その後、家業を継ぐことにしました。わたしは大学から岐阜を離れていたので、実家のお酒造りについてもそれまで接してなったんです。お酒のお米と食べるお米が違うということもその時に初めて知りました。父から教わりながら覚えたのですが、ちょうどその時代は、異業種から入ってくる方々が全国にいたので、彼らと情報交換をしながら一緒に造っていきました。

青年海外協力隊として過ごした3年間で経験したこと、それらの経験から学んだことで、今の仕事や人生に役立っていること影響を与えたことなどありますか?

新卒で協力隊に参加して右も左も分からない状況でした。しかも私は海に潜った経験もなかったのですが、応募した職種ではスキューバ免許取得が必須だったので、協力隊に行くために免許を取って派遣され、現地では毎日のように潜っていました。協力隊としては1番最長となる3年数か月いましたので、そこでの経験が忍耐力と自信に繋がりました。

青年海外協力隊として「海外の開発途上といわれる国が抱える課題にボランティアとして取り組むこと」と、「日本の自分が育ってきた場所や住んでいる地域の課題に取り組み元気にすること」は遠いように感じる人もいらっしゃるかもしれませんが、共通する点を教えてください。

日本酒業界が低迷しているときに家業を継ぎました。ただ、その時期は逆に小さな酒蔵が生き残るにはちょうどいい時代だったんだと思うんです。うちの場合、ほとんど売れていない状態のところからスタートだったんです。それだったら、農家さんと協力してお米を作り、農家も潤いながら酒も造り、そして販売店も潤うようなシステムが出来ないかということで、今のやり方をスタートしました。
うちは岐阜県の酒造好適米として、射美の誉(いびのほまれ)というオリジナルブランドを取得しています。民間でお米を開発して作るというのはごく稀です。それを農家の人にお願いすることで、全量買い取りをさせていただいているので、農家の人も助かります。また販売先も、スーパーには並ばないシステムを組んでいます。特約店さんにのみ卸させていただいてるので、全部即日完売している状況です。そういう意味では農家さんだけでなく、酒屋さんも喜ぶ仕組みを作っています。さらに海外は今8カ国に販売していますが、そちらも1ヶ国に1つの販売先を選び、飲食店にのみ卸させてもらっています。うちは営業マンがいないので、全て自分でやっています。フランス、ドイツ、イギリス、中国、台湾、シンガポール、韓国、香港に出しているのですが、隠れファンみたいな人たちがいまして、海外での広がりを見せているところです。
実は今年、娘がアメリカに留学するので、これを機にアメリカでの販売もスタートしようとしています。
海外での販売は日本酒というものの知名度をあげるために、利益度外視でやっています。もともと自分の酒蔵の利益重視でスタートしていないので。実家を継いだ時、全然儲かっていなかったので、それならみんなで利益を享受できるような、そういうシステムを作ろうと考え、逆にそのシステムによってうちは生き残れたんだなって思っています。そういう意味で、協力隊での経験から教えてもらったことが今の取組みにも役立っていると思います。

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オリジナルブランドの酒造好適米を開発

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日本酒 射美

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