「日本とスリランカをつなぐ架け橋に」(前編)

【写真】ケイケイユウ・アーナンダ・クマーラ氏 スリランカ出身(愛知県名古屋市在住)名城大学 名誉教授
ケイケイユウ・アーナンダ・クマーラ氏 スリランカ出身(愛知県名古屋市在住)

■写真:2021年4月 JICA北岡理事長とともに

2020年に第16回JICA理事長賞(注1)を受賞されました、ケイケイユウ・アーナンダ・クマーラ氏に、38年間にわたる日本での生活、活動、そしてこれからについて伺いました。

【略歴】
1954年12月12日:スリランカ生まれ
1978年10月:スリランカ・ケラニヤ大学理学部理学科(理学士)
1986年3月:東京工業大学大学院理工学研究科経営工学科専攻(工学修士)
1988年8月:国際連合地域開発センター産業開発部、国連フェロー/研究員
1994年:鈴鹿国際大学国際学部助教授(1998年~教授、2008年~学部長、2009年~学長補佐)
2013年4月~2017年:東京工業大学グローバル人材育成推進支援室、特任教授・
2014年~2016年3月:名城大学経営学部教授(新学部開設準備室長兼任)
2016年4月~2021年3月:名城大学外国語学部教授(2020年3月まで学部長)
2021年4月:名城大学名誉教授


・三重県協力隊を育てる会 初代会長2010年5月~2014年6月(2014年7月から現在まで同名誉会長)
・愛知国際戦略アドバイザー
・NPO法人タランガフレンドシップグループ理事長

(注1)国際協力事業を通じて開発途上国の人材育成や社会・経済の発展に多大な貢献をされた個人・団体に贈られる賞

来日されたきっかけと当時の印象を教えてください。

海外から来られた知り合いを見送りために横浜港を訪れたとき

スリランカの大学で学んでいた時、修士号・博士号を海外で取得したいと考えたことが始まりです。大学院選びをする中で、幼少期に見た日本車の格好良さ、ラジオの性能の良さが思い出され、「日本に行けば自分が思い描く通りの学びができる」と確信し、いくつかの選択肢の中から東京工業大学(経営工学研究科)を強く希望し、1983年に国費留学生として来日しました。
日本の第一印象は、タイ経由で大阪の伊丹空港に着陸する時、目に飛び込んできたのは建物ばかりだったことです。「この飛行機は一体どこに着陸するのだろう?」と思ったのを覚えています。と言うのも、スリランカを発つ時に見た、緑が一面に広がる景色とはあまりに対照的だったからです。

当時はまだ珍しい留学生ですが、日本に住む中で、苦労や乗り越える助けとなったものはありますか。

結婚後来日した妻とともに訪問した横浜市の公園にて

一番苦労した事は、アパート探しです。留学生会館に住んだ後、結婚を機に妻を日本に呼び寄せて住む場所を探し始めました。当時は外国人が借りられる家がほとんどなく、知人の助けを借りながらも、なかなか住む家を見つけることができず、本当に苦労しました。
来日当初は日本語もあまり理解できず、環境にも慣れない中で、ホームシックになったことは数え切れません。そんな中で助けとなったのは、博士号を取得して国に帰る、という強い意志と、家族との手紙や電話でした。今と違って気軽に電話ができる時代ではなかったので、まず家族に手紙を書いて電話をかける日時を伝える必要がありました。そして、通話時間は1,000円以内に収まる3分間と決めていました。当日は、1時間かけて国際電話が使用できる電話局まで移動し、何度も練習した2分50秒以内で言い終えられる「原稿」を手に、3分間の電話に臨みました。たとえ短い時間でも、家族との繋がりは大きな支えでした。

国際協力にはどの様にして関わられることになったのでしょうか。

東京工業大学修士課程修了時に、親友の留学生らとともに

東京工業大学の博士課程に進学する際、修士課程で在籍した経営工学研究科から社会工学研究科へと研究科を変更しました。そこで所属したゼミで、日本政府が開発途上国を対象に行った事業の評価をすることになり、英語ができるという理由でメンバーに加えてもらえたのです。これが国際協力に関わるきっかけとなり、またJICA事業を知るきっかけにもなりました。その後、国際協力の分野への関わりは深まり、修士課程修了後には、国連研究員として名古屋にある国際連合地域開発センターに勤務することになりました。

その後、国際協力を学ぶ学生を育てる教育者になられました。

きっかけは2つあります。1つは、学生時代の経験です。当時、日本語があまり分からなかった私は、何とか理解しようと、クラスの一番前の席に座って講義を受けていました。ある日、どうしても分からないことがあり、講義の最中に手を挙げて先生に質問したのです。先生から回答を得て満足した私ですが、ある時、私以外の生徒は講義中に質問しないことに気がついたのです。その時に、「日本では先生に質問をしないのだ」と悟り、それ以降、私も質問するのをやめました。そしてもう1つは、国際連合地域開発センターに勤務していた時に参加した国際会議での経験です。世界各国から専門家が集まる会議で、日本人の専門家が発言するのをほとんど聞いたことがないことに気がついたのです。この2つのきっかけを通して、日本の若者を国際社会で通用する人に育てることが、私にできる日本への恩返しだと感じ、国際連合地域開発センターを辞めて教育者となる決断をしました。

教育者として学生を指導してきた中で、強く印象に残る思い出を教えてください。

名城大学でゼミ生とともに国際協力について学ぶゼミの一コマ

多数の学生が受講しているある授業の中で、学生が発言した内容が強く印象に残っています。沈黙が続く質疑応答の時間に、その学生が「先生、どんな質問をしたらいいですか?」と質問したのです。それを聞いた私は、日本人にとって大勢の前で質問することは非常に勇気がいること、そしてどんな質問をすべきか考えることも難しいのだということを知りました。「日本の若者を国際社会で通用する人に育てる教育者になる」という初心に返らされたような思いでした。その時から、学生に発言させる機会を作るための工夫に、より一層力を入れ始めました。




※後編では、海外協力隊やJICA事業への思いや今後の活動等について伺います。お楽しみに!