海を渡った日本人 移住の歴史と国際協力の原点をたどる
2026.07.23
日本人の海外移住は1868年の明治維新とともに始まりました。仕事や耕作地を求めて海を渡った日本人の苦労や実態は、多くは語られてきませんでした。移住を長年後押しし、現在も日系人社会との連携を進めるJICAの歩みとともに、国際協力の原点をたどります。
ブラジル・サントス港で下船する日本人移住者(JICA横浜 海外移住資料館所蔵)
「移住の歴史は単なる過去の物語ではなく、今も続く生きた遺産です。先人が残してくれた信頼のバトンを私たちの世代が受け継ぎ、医療・防災・教育、あらゆる分野で国際協力を共に作るパートナーとして、次の世代へとつないでいきます」
6月23日、横浜市のJICA横浜 海外移住資料館で始まった企画展「日本人移住と共創の原点―共に挑んだ戦後移住者とJICA―」のオープニングセレモニーで、自身も日系人であるマリオ・マサユキ・トヨトシ駐日パラグアイ大使があいさつすると、集まった各国大使らから拍手が上がりました。
オープニングセレモニーであいさつするマリオ・マサユキ・トヨトシ駐日パラグアイ大使
この企画展は、主に戦後の移住の歴史や成果を写真や展示物で紹介する内容で、11月1日まで開催されています。大型パネルのほか、ボリビアで日系人が生産したパスタや日本米などの実物展示もあり、会場を訪れた人は興味深そうに貴重な資料に見入っていました。
坪井創館長は展示の見どころと狙いについてこう語ります。「国ごとに文化や環境も異なる中、困難を乗り越えながら現地で信頼を築き上げて成果を上げてきた移住の歩みは、我々JICAにとっても誇りであり、移住者とともに取り組んできた協働の結果です。その歩みを多くの人に知ってもらいたいです」
企画展のパネルを眺める来館者
日本人の海外移住は、海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれた2年後の1868(明治元)年、ハワイのサトウキビ農園に153人が渡ったのが始まりとされています。その後、多くの人がアメリカやカナダ、メキシコ、ペルーなどに渡りました。
現在最も多くの日系人が暮らすブラジルへの移住は1908年に始まり、781人を乗せた笠戸丸がサントス港に到着した6月18日は「海外移住の日」に定められています。第二次世界大戦で渡航・入国が禁止され中断しますが、1952年にブラジルへの54人の渡航で再開しました。
移住の目的は当初、日本の人口増加と農地不足、貧困問題の解消にありました。特に戦後は引き揚げ者の流入と出生率急増対策の一環として、政府が海外移住を国策として推し進め、1950年代後半には年間1万6000人台のピークを迎えます。
トラックに荷物や自転車を積んで到着したブラジルへの移住者
パラグアイの日本人学校で行われるスペイン語授業の様子(いずれもJICA横浜 海外移住資料館所蔵)
1954年以降、増加する海外移住希望者に対応するため、日本海外協会連合会(海協連)と日本海外移住振興株式会社(移住会社)が移住事業を担う機関として設立されました。両組織は、移住希望者の募集・選考や渡航費の貸し付け、現地での定着支援に加え、土地の購入・造成・分譲、移住地の開拓など幅広い業務を担いました。
その後、移住者数の減少に伴って事業の重点は営農指導や医療・教育、生活環境整備などの現地支援へと移ります。1963年には両組織が統合されて海外移住事業団が発足し、1974年のJICA(当時は国際協力事業団)設立に伴い、事業が引き継がれました。
JICA発足後も海外移住事業は継続され、その積み重ねが現在の日系社会との連携へとつながっています。小原学・JICA国際協力専門員(日系社会連携)は、その意義について「移住者を支援することは、現地の日系社会や経済の発展につながりました。そして、発展した日系社会との連携が、国際開発協力へと進化していったのです」と語ります。
小原学・JICA国際協力専門員
1960年代以降は、高度経済成長による生活水準向上で海外移住の必要性が薄れていき、1993年に政府の移住事業は終了します。これまでの移住者は戦前が約77万人、戦後が約26万人で、現在中南米にいる日系人は約310万人に上ります。
JICAが日本人の海外への移住を後押ししてきた意義について、小原専門員は「日本人の海外移住の歴史は、時代と共に性格を変えていきました。日本から送り出すことから、現地で定着することが重視されるようになり、今では移住者やその子孫の日系人が、日本との架け橋となり国際協力の主役を担うまでになりました。JICAは移住者とともに歩んできたのです」と感慨深げに振り返ります。
日本人移住者は言語・文化の違いや人種差別、厳しい住環境など想像を絶する苦労をしたといいます。大戦中は強制収容などの迫害も受けました。それでもめげずに生来の勤勉さで現地の信頼を得て、日本語学校や病院を設立しながらコミュニティーを築いてきました。その歴史を振り返る上で欠かせないエピソードを紹介します。それは、ブラジルのセラード農業開発です。
開発前のセラード。中央は土壌サンプルを採集する技術者(日伯セラード開発公社=CAMPO社提供)
ブラジル内陸中西部には、日本の国土面積の5.5倍に匹敵する広大な「不毛地帯」が広がっていました。「セラード」と呼ばれるサバンナで、強い酸性の痩せた土地で農業に適さず、「ただでも遺産相続でも欲しくない土地」と言われてきました。
しかし、この土地に首都のブラジリアが遷都された1960年以降は開発が重要課題となり、ブラジル政府は高い営農技術を持つ日本に支援を求めます。日本側にも、1973年の米国の大豆輸出禁止宣言で、輸入先の多角化が急務となっていた事情がありました。1974年の田中角栄首相(当時)訪問を機に農業協力事業で合意し、日・ブラジルの官民共同プロジェクト「PRODECER(プロデセール)」がスタートします。その主体となったのが、JICAでした。
日本は約20年もの長きにわたり、プロジェクトに技術・資金・人材の各面で協力しました。石灰やリンなどの肥料投入で酸性の土壌を改善し、不毛な赤土を農地に転換。熱帯条件に適した大豆などの新品種開発や、広い土地を生かして大規模・機械化を推し進め、道路や倉庫などのインフラも整備しました。100人を超える日本人専門家を現地派遣し、ブラジル人研修員80人も受け入れて研究人材を育成しました。事業規模は入植農家数717戸、開発面積34.5万ヘクタール、事業費684億円に上ります。土壌改良や農業技術を現地条件に適応させ、JICA、日系農家、ブラジルの研究機関が協力して実用化したことが、成功の要因でした。
世界有数の穀倉地帯へ変貌したセラード(元JICA職員の本郷豊さん撮影)
2001年にPRODECERは終了しますが、セラードは国内農業生産額の6割を占める大穀倉地帯に生まれ変わりました。ブラジルは大豆で世界最大、トウモロコシで第2位の輸出国となります。2006年には「20世紀農学史上、最大の偉業」を成し遂げたとして、農業分野のノーベル賞と言われる「World Food Prize」を受賞しました。
この「セラードの奇跡」の突破口を開き、日本とブラジルをつないだのが、現地の日系人でした。技術力の高い日系人農家がセラードに入植して新農地を開拓し、生産技術の普及や栽培管理の実践などで中核を担いました。組織力を生かして農業協同組合も築き、日本語とポルトガル語を操って日本とブラジルの橋渡し役を果たしたのです。
JICAの海外移住支援の歴史は、今日まで続く国際協力の精神につながります。海を渡る日本人の支援が、やがて渡航先の国での定住支援となり、その支援を受けた移住者が今度は日本と渡航先の国をつなぐ架け橋となっていきました。農業技術の普及や医療・教育の改善は、現地地域社会の発展にも貢献します。日系人社会は日本にとって重要な人的ネットワークとなり、良好な外交関係を支えるソフトパワーへと発展していきます。
坪井館長は「日系社会はいまや、共にその国の社会や経済を良くしていく共創・協働のパートナーであり、その信頼関係に基づく外交・友好関係も築けます。一国・地域にとどまらず、食糧・医療・環境問題など世界規模の課題に取り組む力もあります。若い世代の交流を通じて、多様なルーツの違いを尊重できる社会を築いていきたいです」と展望を語ります。
日本にルーツを持ちながら、それぞれの地域社会で活躍する日系人は、これからも日本と各国をつなぐ重要な役割を果たしていくでしょう。
坪井創・JICA横浜 海外移住資料館長