ベネズエラ地震、医療支援の現場からたどる国際緊急援助隊の使命
2026.09.08
地震、洪水、火山噴火、森林火災……。世界で大規模災害が相次ぐ中、JICAが事務局を担う国際緊急援助隊(JDR)の出動機会が増えています。6,000人超が犠牲となった6月の南米ベネズエラの地震では、医療チームがいち早く激震地に入りました。それは東日本大震災で同国から受けた支援への恩返しでもありました。最前線のリポートとともに、JDRの活動に迫ります。
ベネズエラ地震の被災地で子どもの治療に当たるJDRの小野寺美琴隊員
「見間違えか? いや、もしかして……」
6月25日早朝。近藤貴之・JDR事務局長は自宅でスマホのメール着信を見て、首をかしげました。世界の災害情報サイトがベネズエラでの地震発生を告げています。ところが被害規模を示す色が中程度の「オレンジ」から突然、最大級の「赤」に変わったのです。それはマグニチュード7超の地震が39秒後に再び同じ場所を襲ったことを示すものでした。
JDR(Japan Disaster Relief Team)は、海外で大規模な災害が発生した際に被災国で活動する日本の専門家チームです。事務局はJICAに置かれ、医療、救助など五つのチームが運営されており、このうち医療チームでは約900名が志願して登録し、平時より訓練や研修を重ねています。
JDR事務局は被災国から援助要請があった場合、日本政府の派遣命令を受けてチームを編成し、現地へ出動します。
近藤事務局長は今回、過去の経験などから医療チームの派遣を想定し、発生翌日の26日に調査チームを派遣。首都カラカスの国際空港が閉鎖される中、隊員や機材の現地入りのためのルート確保を急ぎました。この調査チームからの現場情報も踏まえ、7月1日に外務大臣から派遣命令が発出されると、1次隊計43名(調整チームの一部人員を含む)が分散して順次日本を出発し、欧米チームよりも早く激震地のラ・グアイラ州に入ります。首都の空港閉鎖が続く中、分散して地方の小さな空港から入国し、また数時間の陸路移動を経ての現地入りでした。
街に足を踏み入れ、隊員たちは言葉を失いました。建物が天井から押し潰されたように崩壊する「パンケーキクラッシュ」が至る所で起きていたのです。完全に崩壊した巨大マンションも散在しています。トルコ地震(2023年)、ミャンマー地震(2025年)でも活動した看護リーダーの高栁佳弘隊員(愛知医科大病院勤務)は「過去最大級にひどい状況でした」と振り返ります。
建物の倒壊が激しいラ・グアイラ州の被災地。JDRの活動拠点となったサイトのそばでも、行方不明者の捜索が続いていた(渡辺晶隊員提供)
8日に外来診療を始めると、1日100人ほどの被災者が診療所を訪れました。骨折や傷口の化膿(かのう)、ぜんそくなど呼吸器疾患、栄養失調……。
日本サイトには治療を待つ患者たちの行列ができた
日本から輸送した小型レントゲン装置を操作しながら、診療放射線技師の渡辺晶隊員(済生会新潟県央基幹病院勤務)は驚きを隠せませんでした。
「約2週間たつのに十分な医療を受けられず、骨折したままの人や、傷を負ったままの人がとても多かったのです」
がれきの中に18時間生き埋めになり救助された女性を、日本から搬入した小型レントゲン装置で撮影する渡辺晶隊員
目に見える傷ばかりではありません。行方不明の家族を捜し続ける人が心的ストレスで倒れて搬送されてくることも。看護師らは「心の苦悩にもっと手を差し伸べられないか」と、患者たちの思いを傾聴しました。トラウマを言葉にできない子どもたちとは折り紙や風船で一緒に遊び、笑顔になれるように努めました。
薬剤師の小野寺美琴隊員(東京女子医大病院勤務)も葛藤しました。日本から携行した薬には限りがあり、個々に十分な量は配れません。せめてもと、元気のない患者の薬袋に「日本のおまじないですよ」と、折り鶴を入れて渡しました。
JDR隊員から折り鶴をもらい、笑顔を見せる少女
こうしたこまやかな配慮は評判を呼び、日本サイトには毎朝5時から患者の列が。「地球の反対側から、いち早く駆けつけてくれた」と、住民から飲み物やお菓子の差し入れも相次ぎました。
医療技術やデータ管理などでも評価され、レントゲン装置を持たない欧米チームから患者の画像撮影・診断を依頼されることも。ラ・グアイラ州知事からは各国チームの中で最高位の勲章が贈られました。
足をけがした少年の治療に当たるJDRの隊員たち
日本の国際緊急援助は1979年のカンボジア難民支援から始まりました。その後、1987年に「国際緊急援助隊の派遣に関する法律(JDR法)」が施行され、JDRの活動基盤が整えられました。
JDRは2027年に発足40年を迎えます。派遣回数はベネズエラ地震を含めると175回に上り、その活動は国際的にも高く評価されています。
警察庁、消防庁、海上保安庁などが主体となって捜索や救出活動にあたる救助チームは、国際捜索救助諮問グループ(INSARAG)から最高水準の「ヘビー(Heavy)」に認定されています。
医療チームも、質の高い災害医療を提供できるチームとして世界保健機関(WHO)の認証を受けています。感染症拡大を防ぐための助言体制の構築や、診療データの集計を迅速化する電子カルテの導入など、その時々のニーズに応じて機能を強化してきました。
複数チームでの活動もあります。12カ国に甚大な被害をもたらした2004年のスマトラ沖地震・津波では、スリランカなど4カ国に救助、医療、専門家、自衛隊部隊の計14チーム約1,600人を派遣。緊急対応から復旧復興までを切れ目なく支援し、過去最大のミッションを展開しました。
アルジェリア地震(2003年)では救助チームが活動。トルコのチームと協力し、男性の救助に成功した
実は、日本国内の被災地で活躍する災害派遣医療チーム(DMAT)はJDRの活動から生まれました。双方に登録する医療従事者も多く、ベネズエラから帰国した直後に熊本へ向かった隊員もいます。
DMATにも所属し、ドクターヘリに搭乗している高栁隊員が言います。
「ベネズエラで看護チームを統率する中で、DMATでのオペレーションの学びが大変役立ちました。この経験がまた、国内での活動にもつながります。JDRとDMATの活動はループしながら、災害医療を発展させているのです」
さらに、発展のループは海外にも広がっています。
ラ・グアイラ州の日本サイトで看護リーダーとして調整に当たる高栁佳弘隊員(中央)(本人提供)
JICAは東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が災害保健医療のネットワークを強化するための「ARCHプロジェクト」に協力しています。日本の経験や蓄積を参加国に共有していく中で、タイ版DMATなども生まれました。また、研修活動などを通じ、各国間の官民のネットワークも強化されています。
こうした国際協力の意義について、近藤事務局長は次のように語ります。
「災害大国日本の知見は今や世界に広く求められ、国際社会におけるJDRの存在感は年々高まっています。同時に、日本も南海トラフ巨大地震などが発生すれば、他国からの支援を受け入れる立場になるかもしれません。経験や教訓を国内外で共有し、顔の見えるネットワークを構築することは、日本の人々を守ることにもつながると考えています」
2次隊の解団式で帰国した隊員たちに感謝を伝える国際緊急援助隊事務局の近藤貴之事務局長
信頼で世界をつなぐ――。JDRは被災地の最前線で、JICAのビジョンを実践し続けています。
今回が初の派遣となった渡辺隊員と小野寺隊員は、ともに東北出身です。2人がJDRに登録した背景には、2011年の東日本大震災で受けた支援への感謝の思いがありました。
発災直後、日本にはベネズエラ政府から食料や毛布、医療用品など19トンの緊急物資が届きました。
ベネズエラでの地震発生を知った小野寺隊員が真っ先に思い浮かべたのが、その時の記憶でした。「津波被害を受けた実家や友人は多くの支援に励まされ、立ち直ることができました。特にベネズエラはいち早く救援物資を送ってくださった国。派遣に迷わず手を挙げました」
日本チームは1次隊、2次隊計77人が3週間活動し、延べ1,600人超を診療しました。7月28日に熊本地震が発生すると、帰国直前だった2次隊の隊員はベネズエラの被災者からお見舞いの言葉をかけられたといいます。
ベネズエラから帰国した渡辺隊員は、患者からもらったこんな言葉を胸に、日々の診療にあたっています。
「ヒロシマ、大地震、日本は困難から何度も立ち上がった強い国。そんな日本の医療を受けられたことは、私たちの誇りです」
日本サイトで集合写真を撮るJDRのメンバーたち