【リサーチレポート】インターン生が調べてみた。日本人の中南米への移住の歴史と日系社会
2025.12.19
中南米部南米課 インターン 栗本日和
¡Hola! 中南米部南米課でインターンをしている栗本日和です。
今回、インターン生としてJICA横浜の海外移住資料館を訪問しました。中南米に大きな日系コミュニティーが存在することは、よくご存じの方も多いかもしれません。一方で、なぜ日本人が移住したのか、現地でどのような生活を築いてきたのかについては、あまり知られていないのではないでしょうか。
本記事では、資料館訪問と追加のリサーチをもとに、日本人の中南米への移住の背景や、移住先で形成されてきた日系社会の歩みについて、ご紹介します。
目次
1. 戦前の移住
2. 戦後の移住
3. 移住先での生活と工夫
4. 現在の日系社会との関わり
5. 終わりに
1. 戦前の移住
日本から海外への本格的な移住は、1868年のハワイ移住を契機に始まりました。その後、アメリカやカナダ、ペルーなどへ多くの人々が移住しました。背景には、人口増加や農村の貧困といった国内状況があり、政府も国策として海外移住を推進していました。
しかし、1880年頃からアメリカで排日感情が高まると、日本人移民の主な移住先は北米から中南米へと移っていきます。その象徴的な出来事が、1908年に781人の移民を乗せた笠戸丸のブラジル・サントス港到着です。ここからブラジル移住の歴史は本格的に始まりました。
戦前の移住者の多くは、定住を前提というより、「出稼ぎ」として渡航していました。ブラジルでは、移住者の多くがコーヒー農園で契約労働者として働いており、資金を蓄え帰国し、故郷に錦を飾ることを目指していたのです。しかし実際の労働環境は過酷でした。当時のブラジルは奴隷制度が廃止されて間もなく、移民はその代替労働力として厳しい条件下で働くことを求められていました。
こうした状況の中で、雇用農として働き続けるのではなく、自ら土地を開墾し自作農として生きる道を選ぶ人々も現れます。移住者たちは試行錯誤を重ねながら、現地で生活基盤を築いていきました。
ブラジルのアリアンサ移住地 日本人移住者が伐採した木の大きさがわかる体験コーナー
一方、第二次世界大戦下では厳しい現実が待っていました。中南米諸国は連合国側として日本との国交を断絶したため、現地の日系人は「敵性外国人」として扱われました。中南米13か国から2,000名以上 の日系人がアメリカへ強制連行・収容され、そのうち約8割がペルー出身者でした。戦後、アメリカに残った人々やペルーに戻った人々もいましたが、多くはアメリカ政府から「不法入国者」として国外追放され、ペルー政府が入国を拒否したため、日本へ戻らざるを得ませんでした。
2. 戦後の移住
戦後の日本には、「ララ物資」と呼ばれる支援物資が届けられました。これは、アメリカのアジア救援公認団体(LARA)を通じて送られたもので、アメリカからの支援をいうイメージが強く持たれがちです。しかし実際には、中南米の日系人の貢献も非常に大きかったのです。戦時中は強制収容で財産を失い、自身が生活するだけでも大変であったはずですが、祖国の日本を想う日系人からの支援が多く集まりました。
戦後の日本は、引き揚げ者の増加による人口過密や深刻な食糧不足、失業といった課題を抱えていました。こうした状況を背景に、政府は農業移住を国策として推進します。主な移住先はブラジル、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチンなどで、年間移住者数は再開後4年目の55年には1万人を超えました。中南米各地での日系コミュニティーの拡大は、各地に形成された移住地の存在が大きいものでした。パラグアイのイグアス移住地のように政府主導で計画的に造成された移住地や、ボリビアのサンフアン移住地のように、移住者自身の構想から始まり、後に政府が関与して拡大した移住地などがあります。
3.移住先での生活と工夫
移住先において、日本人は食を通じて文化を守り、広げていきました。日本の食材が入手困難であったため、彼らは大豆を栽培し、自家製で味噌や醤油を作る工夫がなされました。こうした取り組みにより、日本の伝統的な食生活が維持されただけでなく、現地農業にも大きな影響を与えました。
パラグアイは世界有数の大豆輸出国ですが、その基盤を築いたのは日系社会の存在です。当初は自給目的であった大豆栽培が、1970年以降、JICAの前身の一つである海外移住事業団から貸与された農機具などを活用し、本格的な大規模農業へと発展していきました。さらに、野菜栽培の普及も重要な役割を果たしました。特にブラジルでは、それまで一般的でなかった野菜が食べられるようになり、地域全体の栄養改善に貢献したと高く評価されています。
生活基盤が整うにつれ、日本人会や県人会、婦人会などの組織が設立され、日系コミュニティーはより強固なものとなっていきました。中でも重視されたのが教育です。「ヨーロッパ人移民はまず教会を建て、日本人移民は学校を建てる」と言われるほど教育への関心は高く、入植から数年で小学校が建設されることも珍しくありませんでした。通学が不便な生徒に対しては寄宿舎も設置するなど、日本人の子供らしく育てたい、日本的な知識や精神を授けたいという次世代への思いが形となって表れていました。
4. 現在の日系社会との関わり
最初の移住から100年以上経ち、日系人は異国で大変な苦労を重ねながらも、勤勉で誠実な彼らは現地で信頼を得ていきました。現在でも政治や医療、ビジネスなどの分野において日系人は重要な役割を担っています。現在の日系社会は日系2~5世が中心となり、世代構成は変化していますが、日本文化の継承は各地で続いています。中南米各国では日本祭りが開催され、ブラジルでは世界最大規模の日本祭りが多くの人々で賑わっています。和太鼓の演奏や日本の郷土料理を食べられる飲食店は日系人に限らず多くの来場者を惹きつけています。
経済面では、日系社会と日本企業の連携も強化されています。民間連携調査団としての訪問をきっかけに、中南米進出を果たす日本企業があり、各国の県人会と母県の自治体や商工会議所が連携し、現地イベントで地元物産の出店が行われるなど、日本国内の地域活性化にもつながっています。
JICAは現在、現地日系コミュニティにおける日本語教育支援や高齢者支援、日系人の次世代リーダーの育成や研修に加え、日本語や日本文化に強い関心を持つ非日系人との連携も重視しています。日系人のアイデンティティも変化していく中で、日系社会を広く捉え、対等なパートナーとして共に未来を創る姿勢が求められています。
5.終わりに
資料館の訪問と調査で特に印象に残ったのは、移住の歴史が単なる国策の結果ではなく、一人ひとりの選択と工夫の積み重ねによって形作られてきたという点です。移住者たちは想像を超える厳しい労働環境や強制移動などを経験しながらも、自らの手で生活を築き、日系社会を発展させてきました。
中南米は遠く離れた地域でありますが、その歴史、現在の日本とのつながりを知ることで、より身近な存在として感じられるのではないでしょうか。本記事が、中南米の日系社会や、そこに暮らす日系人に目を向けるきっかけとなれば幸いです。JICA横浜の海外移住資料館はこうした歴史を学び、体感できる貴重な場所です。ぜひ足を運び、自分自身の目で確かめてみてください。
参考文献
・JICA「JICAと中南米日系社会」
・海外移住とJICA~戦後の海外移住に関わった組織・事業・ひと~
・外務省「日本と中南米をつなぐ日系人」
・外務省「昭和60年版わが外交の近況 第3章第5節 官約移住から100年の歩み」
・農林水産省「中南米日系農業者等との連携強化・ビジネス創出委託事業」
(中南米日系農業者との連携強化・ビジネス創出委託事業、2025年12月15日閲覧)。
海外移住資料館
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