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インタビュー
下田功さん
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氏名:下田 功
配属先:文化青年スポーツ省スポーツ局
任地:コスタリカ共和国
職種/指導科目:体育(トレーニング科学普及)
派遣期間:1985年11月~1989年8月(協力隊員)
1990年12月~1995年3月(シニア隊員) -
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コスタリカの印象(印象に残っている人やその理由、一押しの観光地等)
着任の日、飛行機から見えたコスタリカは、輝く太陽と溢れる緑の中に鮮やかな赤やオレンジ色の綺麗な家が点在するとても美しい国でした。
印象に残っている人は、沢山いますが、強いて挙げるとしたらカウンターパートのマルビン・ラミレス氏です。実直を絵に描いたような人でした。互いに100%の信頼関係で結ばれていたと言えます。仕事がうまく進められたのも彼のお陰だと思っています。
私の一押しの観光地は、プエルト・ビエホです。カリブ海側リモン県の小さな町です。黒人が多く住むこの町の空気感、音楽、そして自然は、私を魅了しました。日本では、絶対に味わえない空気(味・音・匂い)がプエルト・ビエホにありました。 -
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活動内容/業務内容
トレーニン化学普及員として文化スポーツ省スポーツ局に就任しました。配属先となる筈であったナショナル大学からは、受け入れを拒否されてしまい、コスタリカ大学のトレーニング場に通いました。そこで体操競技を専門とするビクトル教授と出会いました。当時は、アメリカから第一次フィットネスブームがコスタリカにも押し寄せていて、私が専門とする筋力トレーニングの他のスポーツへの応用に対してビクトル教授は、大きな興味を持ってくれました。ビクトル氏からコスタリカ大学で臨時の授業をしないかと誘われ、引き受けた所から私の仕事が始まりました。
コスタリカ大学での授業は、好評を得ることが出来ました。後期からは、ナショナル大学から正規の授業のオファーを頂きました。学生の中の一人に首都サンホセに拠点を置く国内最大のプロサッカーチームのU-22監督であったマルビン・ソラーノ氏がいました。彼の導きによりここから2年間、コスタリカU-20代表チームのコンディショニングコーチに就任しました。
文化青年スポーツ省では、芝刈り機の倉庫をトレーニング場に改造し、各種スポーツのナショナルチームを対象に指導を始めました。中でもコスタリカU-20サッカー代表チームは、北中米大会で初優勝を飾り、1989年にサウジアラビアで開催されたU-20ワールドカップに初出場を果たしました。
1991年にシニア隊員として再びコスタリカに就任しました。コスタリカナショナルトレーニングセンター設立プロジェクトに携わりました。 -
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コスタリカでの経験がご自身に与えている影響
コスタリカに行く前の話になりますが、高校3年生の時、私はサッカーでは有名な静岡県の高校の選手でした。高校選手権の準決勝で私のチームは、後半ロスタイムまで2対1で勝っていましたが、相手のラストチャンスで私は、なんと自殺点を献上してしまいました。その後のPK合戦で私は、蹴る筈であったPKを蹴れず私の代わりに蹴った後輩が外して負けてしまいました。
目の前のチャンス(挽回する機会)から逃げてしまったたこの体験は、私の協力隊への参加の決断や、コスタリカでの活動に大きな影響を与えました。
コスタリカでは、自ら仕事の機会を創りだし、目の前に現れた機会に対して全てチャレンジしました。失敗を恐れずにチャレンジしました。結果、失敗もしました。しかし、9年に及ぶコスタリカでのチャレンジの経験は、何事にも代え難い素晴らしい経験となりました。日本に帰ってもチャレンジし続けました。チャレンジする精神は、私の人生に大きな満足感と納得感を与えてくれていると思っております。 -
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現在の隊員を始めコスタリカ協力に携わる皆さんへのメッセージ
30年以上も前のコスタリカしか知りませんが、いまだに当時の関係者とは、良い関係が続いており、SNSで連絡を取り合っています。
コスタリカで仕事をする際に最も心掛けたのは、コスタリカの人たちに心を開くことでした。自分の考えを彼らに伝え、自分を知ってもらうためには、自分から心を開かない限り、相手も心を開いてくれないことを彼らから学びました。
今でもあると思いますが、人種差別的な対応を受けることも良くありました。日本に住んでいたらありえない体験ですね。チノ(中国人)と呼ばれて、いや私は日本人だと・・・よく考えて、これは人種差別ではないと思うことが出来たことが大きなポイントした。私自身も中国人、韓国人、日本人を外見で判断するのは、無理でした。チノ(中国人)と呼ばれて腹が立つのは、自分が中国人を蔑視した感情を持っているからであると気づくことが出来ました。それ以来、私はチノと呼ばれても腹を立てることはありませんでした。
心を開き、心を許せるたくさんのコスタリカの友人を持つこと、そして何よりもコスリカを楽しむ事が、協力隊活動を遂行する上での最重要課題です。 -
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6. コスタリカの皆様に送るメッセージ
¡Hola, mis amigos ticos!
¿Como están? ¿Siempre Pura Vida No?
Es demasiado rápido pasar el tiempo.
Ha pasado casi 30 años después de terminar el trabajo en Costa Rica
Ya tengo 62 años y sigo trabajando.
La enseñanza más importante en mi vida que aprendí por ustedes es
“la vida no es para trabajar, si no para disfrutar”
¡Espero que nos encontremos en Costa Rica de nuevo!
¡Un abrazo fuerte a la distancia!
ファン・ホセ・ガメスU-20監督との打ち合わせ
1988年U-20集合写真
真ん中白が私
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