人の温かみ(前編)

【写真】栗田 智子(愛媛)昭和58年度4次隊/バングラデシュ/人形製作 平成22年度1次隊/ネパール/手工芸 平成28年度1次隊/ミャンマー/服飾
栗田 智子(愛媛)

バングラデシュ (人形製作)

少数民族から踊りを学ぶ

 「海外を見てみたい」という単純な気持ちから青年海外協力隊に応募した。それが、通算3回ものボランティア派遣につながるとは思ってもいなかった。
 1982年12月から3か月の駒ケ根での訓練が始まった。派遣前の体力強化に美しい長野県の冬山を見ながら、毎朝隊を組んでするマラソンや語学学習が楽しくてならなかった。夢に向かって、突然自分の人生が回転し始めた気がした。
 そして、当時世界最貧国と言われていたバングラデシュに派遣された。まだ携帯などは無く、任地には病院もなかった。私は生きて日本に帰れないかもしれないと覚悟した。若かったので、まったく怖いとも思わなかった。
 イスラム教の国バングラデシュでは偶像崇拝をしない。人形作りは宗教に反するので、生徒が村八分になりかねない。人形を作ることについて夫が了解しているか確認を必ず取った。自分の誕生日を知らない人が殆どで、身長など見た目で私が年齢を推定するしかなかった。職業訓練所に通う交通費が支給されるので、それが目的で参加する女性もいた。ある日人形作りに来ない女性の家に行ってみたら、薄暗い家の中でタバコを巻く内職をしていた。私は彼女がその日の食に困っている事を実感した。
 人形のデザインのために踊りやサリーの着方を習ったり、村の農作業の様子をデッサンしたり、少数民族の織る布を仕入れたり、文化を学ぶ事で温かい交流ができた。2年間、配属先が提供したべンガル人の家に下宿し、シングルベッドがやっと一つ入るくらいの部屋をもらって病気一つせず任期を終えることができた。
 帰国1年後、イギリスの団体VSO(Voluntary Service Overseas)のボランティアとしてバングラデシュで活動をしていた夫ピーターと結婚し、イギリスに28年間住んだ。2男1女に恵まれ、子育てをしながらロンドンの大学でDesign & Technology の教員免許を取り、公立高校でイギリス人校長や同僚に支えられて教鞭をとった。

ネパール (手工芸)

ネパール女性技術発展団体(WSDO)の所長と私の娘(随伴家族)と一緒に

ボランティア、調整員、随伴家族によるネパール伝統音楽コンサート

 2回目は、2010年にシニア海外ボランティアとしてネパールに派遣が決まった。政府の手工芸協会(FHAN)傘下のデザインセンター(HANDECEN)に配属となり、布製品・紙製品・銀製品など、フェアトレード貿易もあるような会社から小規模な工場まで、広範囲の手工芸産業のデザイン技術指導やワークショップをした。業務が多岐にわたる為、ストレスが多かったが、現地の音楽に触れる事は私と夫と娘にとってかけがえのない時間だった。週末にJICAの調整員が自宅を開放してサーランギというネパールの弦楽器とマーダル(打楽器)の先生を招いてくださり、毎週末ボランティアが集まって練習をした。  

 一番心に残った活動は、ダーマンという農村の女性に農閑期の副収入として機織りのトレーニングをした事だった。アローという自然繊維の植物の栽培地の整備も整い、その繊維を糸に紡いだり、染色をしたり、布を織ったりして製品化するトレーニングを必要としていたため、ネパール人の機織り指導者と共同でトレーニングにあたった。
 トレーニングには若くして子どものいる女性がたくさん参加した。トレーニングに来る前に家事や畑仕事・薪割・水汲み・子どもの世話を済ませ、またトレーニングが終わったらすぐに子どもの世話や、畑仕事に出る。ミシンを使ったりデザインをしたり、染めや機織りをすることは彼女たちにとっては家事から解放される楽しいひと時だった。トレーニングに行かせてもらえるような理解のある家庭から来ている女性でさえ、ネパール語の読み書きができない人が14人中4人くらいいた。村では家事手伝いの為に学校を辞めさせられる女の子は多い。女性の社会的地位を上げる為には教育を受けることが最強の方法だと私は信じる。しかし、古い習慣を断ち切ることは困難な環境だ。私がトレーニングをした生徒の中には貧困層が多いが皆温情が深く、訓練最終日には料理をしてくれ、新聞紙のお皿を使ってみんなで食べた。
 ネパールの風習である幼児婚や年齢差の大きい結婚は、娘が若くして未亡人になる可能性が高いため、再婚を認めないヒンドゥー教徒の場合、娘は一生つらい思いをする。私がネパールを去ってからも継続的な支援を得られるように配慮し、彼女たちの自立を図った。
 ダーマンにはJICAから4機の機織り機が寄贈され、カトマンズの大手企業からの注文も受けられるようになり、女性たちの生計への道が開かれた。 

 帰国後、愛媛県の私立高校の英語教師になり、授業で発展途上国の子ども達の状況をビデオで見せたり、JICAを通してセネガルの学校にサッカーボールを送ったりした。生徒達から「学校に行ける自分がいかに幸せかよくわかった。」という言葉が返ってきた。