扇椰子のなびく病院でボランティア(前編)

【写真】下司 政代(高知)平成27年度1次隊/カンボジア王国/看護師 看護管理
下司 政代(高知)

 私は、2015年(平成27年)から2017年(平成29年)まで、シニア海外ボランティアとして、カンボジア王国に派遣されました。
 任地は首都プノンペンから国道5号線(東京の日本橋を起点としたアジアハイウェイ1号線)を北西へ約300㎞下った場所にあるバッタンバン市。カンボジアのライスボールと云われる米どころです。市の人口約20万人で、バッタンバン州全体では100万を超える人口を擁します。
 このバッタンバン州バッタンバン市のバッタンバン・プロビンシャル・レフェラル病院の看護管理部で2年間活動しました。プロビンシャル(Provincial:州)とありますが、州と国の保健省で運営していますから州立というより公立と云った方がいいかと思います。

 この病院は、看護部門の日本人ボランティアは私が初めてでしたが、韓国・オーストラリア・イギリス・フランス・アメリカ・カナダ・ドイツなどのボランティアがやってきており、病院のスタッフたちはボランティアに慣れていて温かく迎えてくれました。
 扇椰子が南国の風になびき、真っ赤な花の火炎樹が咲く敷地に、病棟の建物が散在している風景は公園の様で、午後の陽にきらきら輝くゴールデンシャワーの花とエネルギッシュなスタッフたちの話声が、これから勢いよく変わって行くであろうカンボジアを象徴しているようだなと感じたのを懐かしく思い出します。

なぜシニア海外ボランティアに応募したのか

赴任当時の病院正門

 私が中学に入る頃は、アメリカのドラマが流行ったり、東京オリンピックが開催されるということもあり、海外に興味を持つようになりました。とくに「兼高かおる 世界の旅」は、見たことのない世界を見せてくれたテレビ番組でした。
 1963年には、衛星中継で(当時はまだ衛生中継とは言わず宇宙中継と言っていました)翌年の東京オリンピックに向けた初中継がされましたが、その映像はジョン・F・ケネディ暗殺の中継でした。翌朝教室で級友と興奮して話したのをおぼえています。1964年のオリンピックのときは、高校1年生でした。
 翌年の1965年、NHKニュースでJICAの青年海外協力隊としては初めて派遣される隊員が、ラオスに向かう飛行機のタラップを上るのを見ました。今思うと彼らはとても大人の印象で素敵でした。そして強烈な印象を私に与えました。この頃の海外ブームの中で、普通の若者たちでも海外に行ける方法があると思わせてくれたシーンでした。このボランティアになるには、なにか技術があるといいらしい、医療系の資格などあるといいらしいということを知り、そのために看護師になろうと決めて1967年看護学校へ入学しました。その後は就職、結婚、夫の両親の看取りと年月が過ぎ、病院での看護師生活も35年以上経った2014年(平成26)の10月の退職をもって終わりました。
 退職後のある日、いつものように近所の通りへ買い物に行くと、「国際交流フェスティバル」が開催されていました。そこに、すっかり忘れていたJICA青年海外協力隊の旗がありました。
 「これに憧れて看護師になったのに…」という思いで、協力隊の旗を眺めていました。思いが強く出ていたのでしょう。女性の方が「いかがですか、応募してみませんか」と声を掛けてくれました。思わず「これに憧れていたのですよ。でももう歳ですから、応募はできないと思います」と言うと「いいえ、大丈夫ですよ。シニアボランティア制度ができています。なにか資格をお持ちですか」「看護師の資格はあります」「いいですね。ぜひ応募してみませんか」「語学とかできないとだめですよね」「そうですね。英語の資格とかありませんか」「昔の英検なら持っています」「いいですね。その級なら十分です。是非これを読んで応募してください。締め切りは迫っていますが、今からでも間に合いますので、急いで応募してください」思いに火が着いた私は急ぎ応募手続きに取り組み、ギリギリ応募締め切りに間に合いました。