コミュニケーションの楽しさ

【写真】佐伯 拓也(愛媛県)平成24年度3次隊/タンザニア/理数科教師 
佐伯 拓也(愛媛県)

きっかけは地方新聞の全面広告

タンザニアの農村部

 大学4年の晩夏、教員志望だった私は教員採用試験の不合格通知を片手に進路に悩んでいた。このまま、講師として正規採用を目指すのか、それとも何か他の道を探すのか……。そんな中、ふと祖母が新聞を指し「これ行って来たら?」と。これが私と青年海外協力隊との出会いであった。そのまま、地元の説明会に参加、その日のうちには応募書類を作成提出していた。
 ただ、教員になりたいと思っていた私だが、その前に何か大きな経験・糧を得たいという気持ちが大きかった。そして、何らかの形で還元させたかった。
 そして届いた合格通知、派遣国は「タンザニア」。即、地図帳を開いたのは協力隊あるあるだと思う。

英語アレルギー

授業の様子

 自慢ではないが、当時のTOEICのスコアは300点台後半だ。とにかく英語が嫌いであった。そんな私が青年海外協力隊で必要不可欠と思われる英語とどう向き合ったか、お話しさせてもらいたい。
 結論から申し上げると、英語アレルギーは約2ヵ月の派遣前訓練で解消された。
 受験勉強のように机にかじりついて勉強するのではなく、とにかく、使うこと・喋ることを実践した。また、訓練期間中は多くの同期隊員もおり、互いに英語で会話していた。そんな中で英語を使うことより、他者とコミュニケーションをとることに意識が向いていった。コミュニケーションすること自体が英語習得への直接のモチベーションへとなっていた。
 「英語を使わなくてはならない」という考えから、「コミュニケーションの幅を広げる」という気持ちへシフトしていった。そしてこの気持ちは派遣後の現地語(スワヒリ語)習得に大きく役立った。

初海外がタンザニア

授業の様子

 タンザニアはアフリカ大陸の東に位置する。インド洋に面し、広大な大地を有する国である。アフリカ最高峰のキリマンジャロが有名である。ただし人々はコーヒーより紅茶文化だ。それもカレースプーンに山盛りの砂糖を入れる。人々は気さくで明るい人柄だが、道行くアジア人は全て中国人と思われている節がある。そのため「チナ!(中国人)」と呼ばれることもあり、「フー!ハー!」とカンフーのものまねをされることもあった。これをストレスに感じる人もいるだろう。私はむしろ一緒にカンフーごっこをして遊んでいた。
 タンザニアの都市部や観光資源のある地域は開発が進んでおり栄えている。その一方、辺境地や過疎地は開発が遅れている。国民の貧富の差だけでなく、地域による貧富の差も明確であったことが印象に残っている。
 ちなみに言語はスワヒリ語であり、訓練中に学んだ英語は観光地や英語への教養のある人にしか通じない。しかし、先の英語の習得と同じく、コミュニケーションに意義を見出していたので、老若男女不問でとにかく会話するようにしてスワヒリ語を習得していった。着任後3ヵ月くらいでとりあえずの生活には困らなくなっていた。帰国直前には現地の友人と軽い冗談を言い合えるくらいには喋れるようになっていたと思う。

活動1年目

生徒たち

生徒たちと

 私が派遣されたのは地方都市の全寮制の中等学校(日本の中学校及び高校にあたる)である。そこで現地の中学生へ数学の指導を行っていた。活動初日は朝から雨が降っていたのを今でも忘れない。雨の中、意気揚々と学校へ。生徒はおろか、同僚教員の姿もない。日付か時間かを間違えたかと思ったところ、生徒がちらほらと……。拙い英語で聞いてみると、「雨だからみんなゆっくり来る」とのこと。活動初日から異文化を体験した。
 1年目は1学年3クラス、週18コマ(1コマ40分)の授業を持たせてもらった。
 生徒からしてみれば、よくわからないアジア人が数学を教えに来たのだから状況がわからないに決まっている。ただ、数学での数字や数式は万国共通なのが助かった。どうしても言葉での相互理解で劣るため、とにかく黒板に書く内容については常に意識して工夫した。教科書を持っていない生徒が多いので、後でノートを見返した際に授業の内容がわかるように意識づけをした。また授業の構成も「復習→新規内容の説明→例題→演習」の流れを徹底して実施した。

活動2年目

タンザニアの農村部

 2年目は1年目からの持ちあがりの3クラスと新入生3クラス合せて、2学年6クラスの授業を持たせてもらった。単純計算で授業のコマ数は倍である。週36コマ。今思い出してもとにかく体力勝負の日々であった。
 活動1年目をやり切った経験により、忙しいものの多少の余裕もできた。普段の授業だけでなく、授業外の活動にも注力できた。
 タンザニアでは進級試験がある。試験に合格しないと落第になる。そこで、高得点を狙いたい生徒に向けた進級試験レベルの問題の提示や解説、最低限落第したくない生徒に向けた基礎学習や進級試験の問題への取り組み方への補習を行った。ただ、残念なことに進級試験の結果は私の任期が満了し帰国してからの発表であった。そのため結果の詳細はわかっていない。

余暇活動

タンザニアの市場

 主たる活動拠点が学校なので、学校が長期休業の際は活動も閑散期になる。
 広大な大地のタンザニアなので、国内を旅行するに出ることもあった。ただ、どこの地域に出かけても必ず市場を観察していた。肥沃な土地で農業が盛んであったり、ハブ都市で物流が盛んであることといった地域の特徴が見てわかる。ちなみに私の住んでいた地域では、土地は痩せており、物流もあまり良くなかった。そのため、野菜は他の地域より高く、種類も少なかった。余談になるが、私と同じ地域で活動していた隊員は都市部に出かけた際にお土産を買ってきてくれていた。そのお土産として人気だったのは野菜である。
 また、知人からギターを譲り受け、タンザニアで新たな趣味の1つとして楽しむことができた。帰国後もたまに楽しんでいる。

価値観への理解

同僚と

タンザニアの都市部

 タンザニアは全体的に時間の流れが緩やかに感じた。約束しても時間どおりに物事は動かない。それでも誰も慌てることなく物事は進んでいる。そういった国民性なのかもしれないが、時間の流れを楽しんでいるようにも感じた。
 先で少し触れた「アジア人=中国人」の件について少しお話ししたい。
 任地にあった大学の食堂は一般利用もでき、安かったのでよく利用させていただいていた。そこで学生に「よう!中国人!」と呼ばれることがあった。私は「私は中国人ではなく、日本人だ!」と答えた。すると彼は「おれたちには中国人と日本人と韓国人の区別がつかない」と言われハッとした。確かに私たちも「肌の色が黒い人=アフリカ人」とひとくくりにして区別がつかない。この経験は私の価値観についての考え方を大きく変えた出来事であった。
 自分の活動で何かを変える、人々の意識を変えると言った事は、正直な話無理であった。彼らには彼らの習慣ややり方があって然るべきだ。自分の中にそれらを取り入れて、理解することの重要性は十分に身をもって理解し実践した。もちろん、タンザニアだからと言うわけではなく、同じ日本人同士でも通じる部分は多々ある。また、私が活動させて頂いたのは教育の現場である。今日やったことが明日すぐに結果としてに出るわけではない。ただ、2年間関わらせて頂いた同僚教員や生徒、現地の人々には何らかの気づきがあったと思う。それは着任直後と帰国直前の彼らの反応を思い返せば感じることがある。
 ここで身をもって感じた事、学んだ事は今日の私の糧となっていることは間違いない。

帰国後

タンザニアの都市部

 恥ずかしい話だが、帰国後は職を転々とし、当初の夢であった教員にはなっていない。現在は地元の中小製造企業の営業職をやっている。ただ、間違いなく青年海外協力隊で得た経験は活きていると感じる。
 青年海外協力隊での活動や経験が直接的に生かせる環境を見つける方が困難であろう。ただ、協力隊で得た知見や考え方、価値観はどのような環境でも活かされていたと感じる。コミュニケーションに関してや、他の人の価値観への理解は大いに感じることができた。
 人生100年時代のうちのたった2年であるが、非常に濃厚な2年間であったと思う。