まじめに、たのしく、自分らしく、

【写真】吉村 綾乃(高知県)2017年度4次隊/フィリピン共和国/コミュニティ開発
吉村 綾乃(高知県)

JICA海外協力隊を目指したきっかけ

各村を巡回し木酢液について説明しました
プロジェクターやホワイトボードはありません

農家と同僚とのある日のランチ。
ブードルファイトといい、バナナ葉の上にご飯とおかずを乗せてみんなで囲って食べるスタイル。

 協力隊を目指したきっかけを一つ挙げると、大学時代(農学部)に所属していた研究室の海外研修員との出会いです。彼はJICAの研修員制度で日本の農業を学ぶために、奥さんと生後間もない息子さんをアフリカのエチオピアに残し、単身来日していました。それまでの私は、海外旅行の経験はあったものの、国際交流なんてしたこともなく、英語を使う日々は新鮮かつ挑戦の日々でした。
 彼は、自身の研究に関係なくても私を含めた他メンバーの実験や研究も積極的に手助けしてくれる人で、その際には互いの家族・文化・宗教観など多岐に渡る会話をしました。自国の発展のため、日本で知識や技術を習得したい、という彼の崇高な理念と愛国心、そして強いハングリー精神に私の心は引きつけられました。この彼との出会いが、今後の進路について決めかねていた当時の私を国際協力の道へと導いてくれたように思います。自然な流れでJICAを知り、民間人が参加できる協力隊のことを知り、大学卒業前には応募することを決意していました。
 またこれまでを振り返ると、人に誇れるような経験はない上に、正直なかなか思うように進めず、立ち止まった期間もありました。その時期に、周りで支えてくれている人々、出会った人々が、いろんな形で私を助けてくれていることを実感し、その分を次の人へお返ししていきたい、という気持ちが協力隊を目指す一番の動機となったのかもしれません。

現地での活動について

前任が導入した木酢液生産装置について、農家に説明中

大学生たちと企画・開催した異文化交流会

 協力隊は基本的に2年間同じ配属先で活動をしますが、私の場合はJICAの安全面の理由から、活動する場所を任期途中で変更しました。ティナンバック町役場農業事務所(ルソン島ビコール地方南カマリネス州)およびラモン・マグサイサイ大統領記念州立大学ボトランキャンパス農林学部(ルソン島中部地方ザンバレス州)、以上2つの配属先での活動をご紹介します。
 両配属先に共通した活動は、木酢液(※)技術の確立および普及活動でした。木材や竹などを炭化させ、木炭や竹炭をつくる際に発生する煙の成分を冷却して得られるのが木酢液です。現地で調達可能かつ継続的に木酢液を使えるよう、ドラム缶や竹を利用した簡易装置の設置、ココナッツの殻や米のもみ殻などを材料とした木酢液の生産、有機肥料として現地の状況に見合った適切な施用法などについて指導していました。他活動として、農業事務所においては、マーケティングの確立、加工品改善、農業セミナーの企画・開催に従事しました。大学においては、日本語クラスの開催や異文化理解のためのイベントを企画し、開催しました。


※木酢液(もくさくえき):酢酸やアルコールが含まれており、殺菌や植物の成長促進、害虫忌避にも役立つと言われています

活動する上で大切にしていたこと

地域のマダムたちと楽しくZUMBA!

ホストマザー94歳誕生日会にて。
お互い言葉が通じなかったものの、いつも優しく接してくれたホストマザー。

 協力隊は、基本的に1つのコミュニティへ1名派遣されます。そのため活動は配属先の人、地域の人の協力が必要です。まずは周りに自分を受け入れてもらうことから活動は始まります。私が特に大切にしていたことは、出来る限りフィリピン人と衣食住を共にすることでした。とにかく彼らの生活様式や特徴を観察し、真似てみることが活動の第一歩でした。単純かつ当たり前のようですが、その時間を共有することは、言葉だけでないコミュニケーションを図ることができ、何げない日常会話から様々な情報やヒントを見つけることができました。また地域の人が守ってくれることが、安全確保する上でも重要なことでした。これらの積み重ねによって、お互いに理解を深めつつ、フィリピン人と共に同じ目標に向かって活動に取り組めたと思います。

日本人の代表であることを深く自覚した日

キャプテンオカダの話をしてくれた同僚の母親との1枚

大学配属の同僚とハロハロ(フィリピン流かき氷)

大学生と一緒にもみ殻くん炭と木酢液生産との実験中

 初めて配属先へ行った日、同僚の女性の家でランチをごちそうになりました。彼女の家には当時95歳のほぼ寝たきりの母親がいました。彼女が母親に「日本から来た人よ。」と耳元で声をかけ、私がご挨拶すると、しきりに「キャプテンオカダ、キャプテンオカダ。」と、私の目を見つめ微笑みながら、なにか話そうとしていました。その意味がよく分からなかったので尋ねると、彼女の母親は、戦時中にフィリピンにいた日本兵の“キャプテンオカダ”という人物とダンスをしたことがあるという話でした。そのあと彼女は母親に対して、「当時日本人になにもできなかったから、いまこの子(私)をぶっ叩いてもいいのよ。あ、ジョークよ、ジョーク。」と真意は分かりませんが、笑いながら言いました。背中がゾクッとする恐ろしさを感じましたが、この話題から逃げてはいけないと、協力隊事業目的の1つに、友好親善があることを伝えました。私がその気持ちを持っていることに、彼女は深く納得してくれました。戦争を知らない世代とはいえ、事実としてある歴史に対して、ほんの2年間かもしれないけれど、できる限りの善意で還していくしかない、と心の底から思い、改めてこの任地にいる人にとって、私は日本人の代表であることを自覚しました。彼女の母親がどんな経験をされたかまで、詳しく聞けませんでしたが、微笑みながら私の目を真っ直ぐ見て、手を握ってくれたことは印象深く残っています。
 協力隊の歴史においてフィリピン派遣の歴史は長く、まだ反日感情が冷めやらぬ戦後21年後に、フィリピンへ派遣された先輩隊員の話も聞いたことがあります。今日のフィリピン人は、とても親日家で、温かく迎え入れてくれることの方が多いですが、これらはフィリピン人との絆を、草の根レベルで懸命に築かれてきた先輩方の軌跡の賜物であることを同時に体感しました。私も日本人の良いイメージを残して帰ることが、このつながりを守るには一番大事なことだと気付いた体験でした。

まじめに、たのしく、自分らしく、

コロナ禍で帰国したフィリピン隊員(一部)とドミ前にて。国内がロックダウンされ、夜逃げのように緊急帰国。

 題名にしたこのフレーズは、出国前に父からもらった言葉です。フィリピンで活動している時、自分の目的を見失いかけた時、奮い立たせるように心のなかで唱え続けた言葉でした。楽しいと感じていると、それは自分らしくいる証拠だし、心身ともに健康的であることが、相手にも伝わり、活動として成り立ち、真面目に取り組めたように思います。
 最後になりますが、今回自分の活動を記録しておく機会をいただきまして、また拙い文章を最後までお読みいただきありがとうございました。