「アフリカの水を飲んだものは、本当にアフリカに帰れるのか?」

【写真】岡部 淳(愛媛県)平成8年度2次隊/タンザニア連合共和国/自動車整備
岡部 淳(愛媛県)

 時が経つのは早いもので、私がタンザニアから帰国してまもなく四半世紀を迎えようとしている。「いつしか帰りたい」という想いを胸に日々を生きてきたが、未だアフリカの地を踏むことができていない・・・。
 私自身の活動もこの10年余りで、世界から地域、地域から家庭へとその幅を徐々に狭め、気が付けば「帰るべき故郷(アフリカ)」がとてつもなく遠い存在になっている。

いざ、アフリカの大地へ

セルーGRの様子

 「世界を見てみたい!」という子供の頃からの夢を叶えるべく、4年半勤めた自動車会社を退職し、自動車整備隊員としてタンザニアに赴任したのは私が25歳の時だった。
 私の任国であるタンザニア連合共和国には国土の1/4にあたる232,000平方kmの野生生物保護区があり、12カ所の国立公園と10カ所のゲーム・リザーブ(狩猟保護区)がある。その中の1つ、セルー・ゲーム・リザーブ(以下セルーGR)が私の任地である。セルーGRはタンザニアの南東に位置し、面積は約54,000平方kmと、九州がすっぽり入ってしまう程の大きさを持つアフリカ最大規模のゲーム・リザーブである。ここでの私の仕事は、セルーGR内の40台の車両と7つのキャンプ・ガレージの管理、整備スタッフ全員に技術移転をするということだった。

現地での生活

象現る!(奥に見える建物がトイレ/右端に見える建物が私の自宅)

 タンザニア赴任後に約1カ月の現地語学訓練を終え、まずは、セルーGR内の現状を知るという目的から私は北部にあるマタンヴェ・キャンプに赴任した。ここには、レンジャーとその家族、約400人が一緒に生活している。当然のことながら保護区内であるため、電気も水道もない。食糧も乏しい・・・。あるのはタンザニアの主食であるウガリ(トウモロコシの粉を湯でこねて蒸したもの)と玉ネギ、ジャガイモ、米ぐらいのもので、時々、人間の力の源となるタンパク質である肉を食べることができる。どうやって手に入れているかというと、ここはゲーム・リザーブ内ではあるが、キャンプの人々が生きて行くために1カ月に2度ほど狩猟が許されている。そして、ハントしたバッファローやヌーの肉をキャンプのみんなで分けてあって食べる。普段、彼等(繁殖の為、雌はハントしない)野生動物の命を密猟者から守っているレンジャー達が、動物を撃って食べるというのは少し不思議に思われるかもしれないが、ここで生きて行くためには仕方の無いことなのである。
 水道のない、キャンプでの生活は、朝の水汲みから始まる、私の起床する午前6時30分頃にはすでに現地のお母さんたちや子供たちがキャンプにたった1つしかない井戸に集まり、水汲みを始めている。頭に大きなバケツ(20リットル)を載せて器用に歩いている。小さな子供でさえも健気に手伝っている。その姿を見て「私もやってみよう」と思い、バケツを頭の上に載せて水を運ぶことに挑戦してみたが、これが案外難しく上手くバランスを取ることが出来ず、最初は歩くどころか水の入ったバケツを頭に載せることさえできなかった。結局、家にたどり着いた時にはバケツの水は半分くらいになっていた。
 このキャンプ内で忘れてはいけないことが、ここの主役である野生動物たちの活躍である。「私の住んでいる家はしばしばゾウによって襲撃される」、と言っても本当に襲われるわけではない。ゾウたちが水を求めてキャンプにやってくるのである。しかし、なんといっても相手はゾウである、むやみに近づくと踏みつぶされかねない。ゾウたちがその場を去るまで、安全な所でじっとしていなければならない。少々危険ではあるが、自然の動物たちとこんな近くで接することなど、日本の生活では決して考えられないことである。こんな素晴らしい野生の王国マタンヴェ・キャンプから私の協力隊活動はスタートした。

厳しい現実から学んだこと

たくましい現地のスタッフたちと

 ここでの私の仕事は、冒頭に述べた施設と車両の管理や技術移転ということだったが、実際には密猟防止部隊に帯同し、レンジャー達が現場で使用する車両のメンテナンスおよび故障修理(応急措置)を行うという非常に過酷な任務だった。私たちの仕事は「密猟者から動物を護ること」、密猟者たちの目的は「誰にも見つからないように動物をハントすること」。そのため密猟者たちは、目的を達成するために日本では想像できないような悪路(道なき道)を進み密猟を行う。私たちも彼らの行動を阻止するために、同じ道を進まざるを得なく、過酷な状況下で酷使され続ける車両の故障は、私が日本で全く経験したことがないものばかりであった。また、それらの修理方法についても私が日本で身に着けた経験と知識では、全く歯が立たないものばかりで、赴任早々、自分の無力さを痛感させられた。
 今となれば笑い話として語れるが、赴任当初の私は、わざわざ日本からやってきて「分かりません。」「できません。」だと何をしに来たかわからないという思いで、必死に勉強し、ボロがでないように体裁を繕うことに終始していた。しかし、そんな付け焼刃の知識では厳しい現実にいつまでも対応ができるはずもなく、マンパワーとして活躍するどころかただの傍観者として彼らのやっていることを見守るのが精一杯というのが正直なところだった。
 見たこともない故障に現地のスタッフたちは、日本では考えられないような方法でどんどんと対応していく。日本では安全上、構造上の面からも到底考えられない方法であったとしても彼らは迷うことなく試してみる。なので、もちろん失敗も多い。「失敗すると分かっているけど、とりあえずやってみる!」というのは、無責任で無謀にも思えるかも知れない。しかし、アフリカのサバンナで車が故障するという厳しい環境下におかれた場合、何もせずそこに立ち止まっていても何も変わらないし、ましてや良くなることは決してない。
 実際に「ダメもとでもやってみる」→「結果的に成功!」この光景を現地で何度も目にすることになるのだが、何でもすぐに諦め「待ち」の姿勢に転じる私にとってはかなりの衝撃であった。彼らの前を向いて行動する力、単なる知識ではなく経験から身に着けた知恵を使って困難な状況に立ち向かう姿からは、本当に多くのことを学ばされた。タンザニア流のやり方にも慣れ、マンパワーとしてもようやく役に立てるようになった頃、私の協力隊員としての任期は終了した。

帰国後の活動

小学校での様子

 帰国後は、協力隊での活動を還元するという目的から地元の愛媛県新居浜市に戻り、家業の自動車整備工場を手伝う傍ら、依頼があればどこででも講演を行った。自分の体験を話すことで、自分に出来る範囲の「小さな」国際協力を積極的に展開していった。主に県内の小中高校を中心に「総合的な学習の時間」や「出前講座」などの講師として、「アフリカで学んだこと」「国際理解や国際協力について」「ボランティアに対する考え方」などを伝える活動を行う一方で、2004年からは、地元の市民活動推進センター準備会のメンバーとして市民活動にも参加し、同年9月には、第8次新居浜・徳州友好訪中団に団員として訪中。また、2006年に開設された「新居浜市まちづくり協働オフィス」には、立上げメンバーとして参加するなど地域に根差した活動を幅広く積極的に行っていった。しかし、2011年に第2子となる長男の誕生を契機に家庭を第一に考え、外での活動をなるべく控え、子育て、家族サービスに専念することとなった。
 現在は、3人の子どもの父として、「世界」→「地域」→「家庭」とその活動範囲を徐々に狭めながらも、自分にできる範囲での国際協力、地域活動を細々と行っている。ちょうど、長男が小学校に上がるタイミングで地元のボランティアの方から、小学校の6年生を対象に朝礼前の20分間の時間を使って子どもたちにアフリカでの話をする機会をいただいた。隔週で4コマずつ2クラスを担当しており、この活動も今年で5年目になるが、毎回子どもたちは目をキラキラと輝かせ私の話を聞いてくれる。その度に、私の心の奥底で「アフリカの水を飲んだ者は、またアフリカに帰る」という諺が蘇る!いつの日か実現させたいものである。