エジプトの秘宝を守る(後編):覚悟を決めてツタンカーメンの遺物と向き合い、保存修復のノウハウを伝授

2020年12月25日

これまで12年におよぶJICAの大エジプト博物館の人材育成や保存修復に向けた協力で、2016年からは、いよいよツタンカーメンの遺物など秘宝の保存修復に取り組む「大エジプト博物館合同保存修復プロジェクト」が始まります。シリーズ後編では、本物の遺物に触れながら保存修復に携わる専門家たちがこれまでを振り返ります。

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合同保存修復プロジェクトのメンバーら

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お話を伺った専門家のみなさん
座談会出席者(カッコ内は担当分野/肩書き)写真左から、
正田陽児専門家(梱包・移送)
岡田 靖専門家(木材保存修復)
西坂朗子専門家(保存修復計画/プロジェクト総括補佐)
石井美恵専門家(染織品保存修復)
桐野文良専門家(文化財科学・労働安全衛生)と坂本圭職員(JICAエジプト事務所)はオンラインで参加

約90名の専門家によるオールジャパンでの取り組む

— みなさんは合同保存修復プロジェクトの前から長期にわたってご協力いただいていますが、この12年間で総勢何名ぐらいの専門家の方が関わっていらっしゃるのでしょうか?

西坂朗子専門家(保存修復計画/プロジェクト総括補佐)

西坂●私たちのような素材ごとの保存修復専門家に加え、エジプト考古学の研究者から文化財の診断分析を担当する方、遺物データベース構築や収蔵品管理のスペシャリスト、3D計測や写真撮影、カビや害虫から遺物を守るための総合的有害生物管理のご担当、さらには遺物の梱包・移送の専門家など、文字どおり総力戦で臨みました。およそ12年のプロジェクト全体で約90名の専門家による地道なご協力がありました。

岡田 靖専門家(木材保存修復担当)

岡田●いわばオールジャパンで取り組みました。大エジプト博物館には約10万点もの遺物が収蔵される計画ですが、そのすべての修復を扱うわけにもいきません。そこでプロジェクトでは限られた期間と日本側の得意分野などからエジプト側と協議して木材、染織品、壁画の3分野72点を対象遺物としてセレクトしました。

— それまでのレプリカによる修復保存の研修段階から、ツタンカーメン王墓から発見された副葬品や、さらに古王国時代の貴重な壁画など「本物」の遺物を修復することになったときには、相当なプレッシャーと緊張感だったのではないでしょうか?

岡田●最初は「えっ、あの、ツタンカーメン!」と正直びっくりしました。エジプト側から、さまざまな至宝の提案もありましたが、木材部門ではツタンカーメンの儀式用ベッドと二輪馬車(チャリオット)、付属の天蓋など9点を保存修復の対象遺物としました。ツタンカーメンにしろ、古王国の壁画にしろ、日本では縄文時代にあたるわけで、そんな時代の木製馬車とか彩色壁画とかは日本にはきちんと残ってはいません。

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高精細デジタルマイクロスコープ(JICA供与機材)による二輪馬車細部の観察を見守る岡田専門家(中央)

石井美恵専門家(染織品保存修復担当)

石井●それまでのレプリカによる保存修復研修では、例えば麻の布を購入してオーブンに入れ、ボロボロに焦がしたものをサンプルに使うなどしており、研修生も私たちも実践としては消化不良の思いが少なからずありました。しかし、いざ本物を扱うとなったときには、私も含めて関わるすべての日本人が「失敗はけっして許されない」「腹をくくることも必要」との強い気持ちで臨みましたね。染織品は当初400点くらいの候補から、最終的に修復対象は57点に絞られました。

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高精細デジタルマイクロスコープ(JICA供与機材)による染織品細部の観察。左端が石井専門家

修復センターへの遺物移送作業が最初で最大の山場

— エジプト考古学博物館から博物館修復センターへの遺物の移送が始まりますが、いちばん大変だったのは、どんなことでしたか?

岡田●木製遺物の移送を決行したのは5月初旬。カイロはすでに暑くて気温は35度以上あったでしょう。強度的に不安があるところをX線透過撮影により内部の状態を把握し、振動で塗膜が剥げそうな箇所は和紙で養生しました。あとは美術品移送のスペシャリスト正田さん率いる日本通運スタッフと大エジプト博物館の移送ユニットの皆さんにお任せしました。

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エジプト人、日本人専門家による天蓋移送のための梱包作業。左から2番目が正田専門家

正田陽児専門家(梱包移送担当)

正田●当社は70年近い美術品輸送のノウハウがあり、日本であれば空調とエアサスペンションを備えた美術品専用輸送車で運ぶところですが、エジプトでは普通の貨物トラックを使わざるを得ませんでした。そこで、日本から振動衝撃吸収パレット(防振の台座)を持ち込み、国際輸送グレードの二重梱包を施して万全を期しました。およそ20kmの道のりをゆっくりと安全運転で1時間ちょっと。道路も日本のような整った舗装ではないので、祈るような気持でしたが、ダメージなく無事に修復センターに搬入できたときはホッと胸をなで下ろしました。

— 移送といえば、これから開館に向けて、保存修復センターから博物館内の展示スペースへの遺物搬入も重要ですね。

西坂●72点の保存修復作業はほぼ完了していて、修復センターの保存修復室に置かれています。同じ敷地内とはいえ、これらを新博物館の本館に運び込んで、展示ショーケースなどに収めなければなりません。

正田●コロナ禍で見通しが不透明ですが、準備は粛々と進めています。計画では修復センターから緩やかな下り勾配の地下トンネルを使って運びます。床はコンクリート打ちっぱなしで300~400mは運ばないといけない。そこで、制振のためにゴムタイヤを履かせた特注の大型台車を日本で調達し、すでに現地に届けています。

チームワークの大切さや、研究に対する自立心を伝えた

— 各分野の専門家としてのお立場から、人材育成の成果をどのように感じていらっしゃいますか。

西坂●壁画保存修復の基本技術は万国共通ですが、素材などはエジプト独特のものがあり、お互いの知識や技術を持ち寄りながら、一緒に考えました。そのなかで、予防的な修復を重視する日本側の考え方が、研修と実際の保存修復作業を通じてエジプト側に理解されたことが大きいと感じています。

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キャプション色彩色差計を用いた彩色文化財の記録、評価方法の研修を行う西坂専門家(右)

岡田●どの分野でも一人で保存修復が行なえるわけではありません。さまざまな分野の専門家と一緒にチームとして携わってきました。エジプトのスタッフに「日本に教えられた中でいちばん感動したのがチームワークの大切さだ」と言われたのですが、そうした彼らの意識の変化が大きな成果だと思います。

石井●私が心がけていたのは、彼らに自立心を持ってもらうことです。ツタンカーメンの染織品は非常に脆いため、これまで科学的な診断分析がなされていません。今回、若いエジプト人スタッフが最新の手法で丹念に調査してみると、過去の著名な論文とは食い違う場合もあり、彼らは自身の分析結果に不安をいだきます。そんなとき私は「あなたが見たことをあなた自身の言葉で発信してください」と伝え、励ましました。時間はかかりましたが、研究に対する自信や自立心は根付いてくれたと感じています。

— 最後に、このような文化遺産分野に関わる支援の難しさや醍醐味を教えてください

坂本●保存修復センターのスタッフの方が「ここは文化財の病院です」と言った言葉が印象的です。JICAは人間のための病院にさまざまな協力を行っていますが、文化財の手当てをすることも同じように貴重だと思います。エジプトはGDPの約1割を観光が担い、ピラミッドやツタンカーメンなどの至宝は経済面で国を支えています。その文化財を手当てし、文化財の保存に関わる人材を未来につなげていく。その協力の一端を担えたことが醍醐味と感じています。

桐野●2008年からの地道なコミュニケーションの積み重ねの結果、単なる対処方法としてのハウツーだけでなく、遺物取り扱いの基本的な考え方や保存修復の理念がエジプト人スタッフに根づき、自立的に行動できるようになったことに尽きると思います。人材育成や技術移転は目に見えづらいので忍耐強く取り組む必要があります。特に保存修復分野は表舞台には出づらいので、いっそう難しい側面があるでしょう。しかし今では、12年間のプロジェクトを通じて育ったエジプトの人々が、保存修復センターをはじめとしてエジプト全土、各方面に広がり、すでにエース格として活躍しています。エジプトにはまだ数えきれないほどの貴重な遺物があり、今も新たに発掘されています。プロジェクトによってできた人々の絆が、エジプトの文化遺産の未来を照らし続けていってくれると信じています。

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キャプションエジプト人、日本人専門家による壁画のX線蛍光分析(JICA供与機材)。右端が桐野専門家

12年間におよぶエジプトの文化財保存・修復に向けたJICAの取り組みは、今回、お話を伺った日本人専門家のほか、多くの専門家、そして、移送を手掛けた日本通運をはじめとする日本企業、そして、何よりもエジプト側の関係者ら、大勢の方々の協力があったからこそ今に至ります。来年に予定される大エジプト博物館開館に向け、JICAは多くの方々とともにさらなる協力を続けています。