受け継がれる緒方貞子の志と、「人間の安全保障」の今

2022年6月20日

6月20日は「世界難民の日」——紛争などにより難民にならざるを得なかった人々への支援に心を寄せるために制定された日です。JICAの難民支援の根底にあるのは、国連難民高等弁務官やJICA理事長を歴任した故緒方貞子さんが唱えてきた「人間の安全保障」という考え方です。この「人間の安全保障」は、感染症や軍事侵攻などの新たな脅威に晒されている現代に、どのように受け継がれ、生かされるのか。緒方さんの志を受け継ぐ2人の言葉から紐解きます。

「命、暮らし、誰もが人間らしく生きる尊厳を守る。自分のことだけでなく、他人のことも考える。それが人間の安全保障、いたってシンプルなのです」

JICA緒方貞子平和開発研究所の牧野耕司副所長は、時としてわかりにくいとも言われる「人間の安全保障」を、簡潔に表現します。

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JICA市ヶ谷にある「緒方貞子メモリアルギャラリー」にて、人間の安全保障について語る牧野耕司副所長

JICA理事長時代の緒方貞子さん

人間の安全保障の考え方をJICAの取り組みに根付かせたのが、長年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で難民支援に携わり、その後、JICAの理事長を務めた緒方貞子さんです。

数々の難民支援の現場で、自分の目の前で人が亡くなるという厳しい状況を経験したからこそ、最も脆弱な人々の保護と能力強化に力を注ぐことをJICAでも実践していった緒方さん。誰もが安全に人間らしく生きるために、今できるベストを尽くす——その志は、理事長を退任して10年、2019年に亡くなって3年経った今も、JICAの中に脈々と受け継がれています。

そして今、世界が地球規模の感染症や国際秩序を脅かす軍事侵攻といった未曽有の危機にさらされるなか、改めて一人ひとりが人間の安全保障について、自分事として考える必要に迫られています。

今一番困っている人を支援する。とにかくアクションを起こす

人間の安全保障の概念については、1994年に国連開発計画(UNDP)が初めて取り上げ、国連機関などでさまざまに議論されました。90年代前半に、世界の紛争の数が急増したことなどが、この概念を生み出す背景になったと言われています。その後、2003年に国連の「人間の安全保障委員会」が報告書としてまとめ、「すべての人々が恐怖と欠乏から逃れ、尊厳を全うすることができる世界を創る」と提唱しました。緒方さんはこの委員会の共同議長の一人でした。

2003年にJICA理事長となった緒方さんは、この人間の安全保障を基本に据えた取り組みに注力します。ただ、その概念が抽象的で取り組む課題が広範囲に及ぶことなどから、JICA内ではどこから手を付けていいのかわからないといった声も上がったと、当時、人間の安全保障推進課長だった牧野副所長は述べます。

「『四の五の議論はいいから、まずはアクション』『人間の安全保障とは何かなど、哲学的な議論をしている時間はない。今困っている人に対して、今できることをやる』。緒方さんは理事長着任以来、そんな言葉をよく口にしていました。まずは現場に行きなさい、と」

JICAは、現場で人間の安全保障を実践できるよう具体的な指針を示した「人間の安全保障7つの視点」を制定し、「今一番困っている人を支援する」という点から、平和構築や、貧困にあえいでいたアフリカへの支援に注力。人間の安全保障への取り組みを具現化していったことで、その考え方がJICAで徐々に浸透していったと牧野副所長は振り返ります。

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緒方さんはJICA理事長時代、現場主義を貫きました(緒方貞子メモリアルギャラリーの展示より)

「人道支援と開発協力の協働」。ウガンダで実践される新しい難民支援の形

UNHCRで難民への人道支援の実施、国連で人間の安全保障の考え方をとりまとめる立場を経て、JICAでは中長期的な視点から自立を後押しし、危機の根本原因に対処する開発協力の立場から難民を含む脆弱な人々への支援に注力してきた緒方さん。様々な立場で、人間の尊厳維持や安全確保をどう実現するか取り組んできました 。

紛争により難民となった人々に人道支援として食糧や物資を配布し、暮らしをサポートするものの、人道支援機関による支援は難民が自国に帰還するところで終了してしまいます。内戦後、自国政府が国民にサービス提供できるまで回復していない状況での自立は困難なため、いち早くJICAのような開発援助機関が内戦後の復興に携わることが必要という意識を、緒方さんはUNHCR時代から強く持っていました。

「国際NGO職員として紛争後のルワンダでタンザニアの難民キャンプから帰還してくる人々の支援に従事していた際、当時国連難民高等弁務官だった緒方さんが、人道支援による難民帰還支援の後、継ぎ目なく開発援助機関が復興支援を開始するよう働きかけていたことをよく覚えています」

そう語るのは、JICAの国際協力専門員として難民問題等平和構築支援に取り組む小向絵理さん。2009年に開始したウガンダ北部紛争後の国内避難民の帰還・定住、復興支援から継続して、現在は同じウガンダ北部で近隣国からの難民の受入地域への支援に関わっています。

小向専門員は、「人道支援と開発協力のギャップを埋めるという緒方さんの志は、形を変えて、JICAが今、ウガンダで取り組んでいる難民支援の現場に受け継がれている」と言います。

紛争が長期化する近年は、人道支援から開発協力への引き継ぎという流れが困難になっています。人道と開発が連携して、難民と難民を受け入れる社会を支援する必要が生まれており、長期化する難民が多く暮らすウガンダでの協力も新しい形に移行しています。ウガンダ北部には、近隣の南スーダンやコンゴ民主共和国から逃れてきた約100万人にも上る難民が暮らしています。内戦が長期化し、ウガンダでの暮らしが10年以上に及ぶ難民が増えるなか、地域住民からは、難民が地域の資源や施設を利用することに対する不満の声もあがっています。そのような状況のなか、JICAはウガンダ北部でUNHCRといった人道支援機関や世界銀行や他国の開発援助機関と共に、地域住民と難民の双方が安心して暮らすことができる仕組みづくりをウガンダ政府と進めています。

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ウガンダ北部西ナイル地域の難民居住区で居住区長から聞き取りをする小向専門員(奥左から2番目)。

人間の安全保障の実現にはコミュニティとそこに暮らす人々のエンパワメントが不可欠

難民が長期的に自国に戻れない状況となった今、難民支援は、緊急的な人道支援にとどまりません。難民自身の能力を開花させ、自国に帰還してからも役立つ教育や研修などの提供、難民を受け入れる地域コミュニティの発展、難民と受け入れ地域コミュニティの平和的な共存を促進するための取り組みなど、中長期的な開発協力が求められるようになってきました。JICAの役割は増していると小向専門員は語ります。

「ウガンダで帰還の目途がたたない難民が地域住民と共に人間らしく生きていくことができるよう、ウガンダの地方政府が双方の声を反映したサービスを提供するための協力をしています。そこで暮らす人々がメインアクターとなり、自らの力で問題を解決する力を身に付けて実践していくこと、それこそが『尊厳』を自立的、持続的に守ることにつながると思うのです」と語る小向専門員。JICAは、パレスチナの難民キャンプなど、他の長期化した難民の現場でも、コミュニティや政府機関の能力強化を通じて難民の尊厳が守られるための協力を推進しています。

SDGsの達成を下支えする、現代の人間の安全保障のあり方

世界の難民及び国内避難民(注1)は、2011年から急激に増加しています。UNHCRは今年5月、その数は1億人を超えたと発表しました。(注2)。さらに紛争や難民・国内避難民問題は長期化しています。2021年9月から10月に実施された「グローバルリスク意識調査」(注3)によると、調査対象者の9割が、感染症の拡大や気候変動など、複数の脅威による社会的脆弱性や格差の拡大への危機感を募らせています。加えて、2022年のロシアによるウクライナ侵攻では、周辺国のみならず、世界中の国と人々がさまざまな形で脅威に襲われており、このような人類すべてが脅威に瀕する状況は、過去2度の世界大戦以来と言われています。

注1:
国内避難民とは、内戦や暴力行為、深刻な人権侵害、自然災害などによって家を追われ、自国内での避難生活を余儀なくされている人々のこと

注2:

注3:

誰もが安全に、人間らしく生きるという人間の安全保障への取り組みについて、牧野副所長は「これまで日本人にとっては、世界のどこか遠くの出来事として捉えがちだったのでは」と指摘します。しかし、日本でも新型コロナウイルスの感染拡大で病院システムが機能しなくなり、異常気象で洪水が発生するなど、危機が身近となった今、「命や暮らしを守り、人間らしく生きることを改めて誰もが自分事として考えなければいけない」と言います。

緒方貞子平和開発研究所はこの3月、時代の変化も踏まえ、人間の安全保障を改めて世界に向けて発信していくため、「今日の人間の安全保障」と題したレポートを創刊しました。

「このレポートの反響は大きく、経済団体や学生グループなどからも人間の安全保障について話してほしいとの問い合わせもあります。これまでは考えられなかったことです。人間の安全保障の実現に向け、民間企業や市民社会も注目し始めています」と言う牧野副所長。そして次のように語ります。

「地球上の誰一人取り残さず、持続可能な開発を目指すSDGs達成に向けた動きを下支えするのが人間の安全保障とも言えます。『10年後、そしてもっと先を見越し、世界が平和になれば、日本も平和になる』——そんな緒方さんの思いを受け継ぎ、時代に合わせた人間の安全保障の実現に向けたアクションを発信し続けていきます」

関連リンク:

緒方貞子メモリアルギャラリーがオープン:等身大の緒方さんを知る

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2022年3月、JICA緒方貞子平和開発研究所があるJICA市ヶ谷ビルの1階に、「緒方貞子メモリアルギャラリー」が開設されました。人間の安全保障を実践してきた緒方さんの足跡を、エピソードを交えながら紹介。偉大な功績はもちろんのこと、直筆の日記をはじめ、映像や貴重な資料から、等身大の緒方さんの姿を垣間見ることができます。その生き方や人柄を知ることで、次世代の緒方さんを志す人が現れることも期待されます。

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(写真左)テニスはプロ顔負けの腕前だったという緒方さん。「週明けに出勤すると、緒方さんはいつもうっすら日焼けしていて、きっと週末は練習されていたんだと思います」と牧野副所長は当時を思い返します
(写真右)時代と共に変遷する人間の安全保障の考え方についても紹介

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2001年9月10日と11日の直筆日記。同時多発テロが発生したその日、緒方さんはニューヨークに滞在していました。11日の欄には、「新聞を読み終り外を見るとWorld Trade Buildingから黒煙(中略)アメリカのアフガニスタン報復を予感」と書かれています。その後、緒方さんはアフガニスタンへの支援に取り組んでいきます。

緒方貞子メモリアルギャラリー
■開館時間 9:00~21:30
■休館日  年末年始
■入場料  無料

■アクセス/施設概要

※新型コロナウイルス感染症の状況によっては、開館時間などが変更になる可能性があります。