【隊員たちのイマ】茨城にUターン! ウガンダでの経験を活かし日立市でカフェを経営 直井道さん【後編】


直井 道さん (福島県いわき市出身・茨城県日立市在住 元青年海外協力隊/小学校教諭/ウガンダ)

経営するカフェにて息子さんを抱きながら店に立つ直井さん

小学校教員を経て、青年海外協力隊としてウガンダで小学校教諭として活動。帰国後、貿易商社に勤務したのち、母校である茨城キリスト教大学のそばに、コーヒーショップ「CAMEO COFFEE COMPANY」※1を開店。経営、店舗運営を行っています。
後半ではJICA海外協力隊協力隊参加から帰国後について語っていただきました。

青年海外協力隊としてウガンダで経験した異文化と言葉の壁

ウガンダの活動写真

ウガンダ授業風景

ウガンダに渡った直井さんは首都カンパラからバスで1時間のところにあるナムプンゲ村の小学校に算数、理科、体育の指導をするため配属された。
意気込んで活動をスタートしたのも束の間、すぐに困難にぶつかった。まずは言葉の壁だ。日本では外国人の友人らに恵まれ、英語での意思疎通に不便を感じることがなかったはずなのに、言葉が通じないのだ。ショックだった。ウガンダでは独特の訛りのある英語がスタンダードで、直井さんの話すアメリカ式の英語は現地の人々に良く理解してもらえなかった。また、村では学校以外の生活では「ガンダ語」を使ったコミュニケーションが主流だった。同僚や村の人々との交流の場に入ることができず、大きな疎外感を感じた。

コミュニケーションが取れていないからか、担当予定の授業をするため教室に着いたら、既に他の先生が授業をしている。体育の授業をするため直井さんが校庭に出ても誰もついてこない。先生たちとミーティングを予定してもすっぽかされる・・・そんな日々が続き、あっという間に半年が過ぎてしまった。

「自分は何一つ役に立てていない。ウガンダに来ても迷惑ばかりかけている・・・。」そんな焦りがあった。「なんとか役に立ちたい!」と思った直井さん、自分がウガンダへ来た意味を見出すかのごとく、配属先の学園祭に向けて音楽、体育、アートなど生徒の学習成果を発表する場を設けた。
しかし、力を入れてやってみたものの開催後の直井さんに達成感はなかった。プラスの影響を感じることができなかった背景には、現地の人々から聞こえてきた心ない言葉だった。
「道は日本からきたのに何もくれないし何もやっていない。」
振り返ればそれは一部の先生の意見で、直井さんの活動を認めてくれていた先生もいたのだが、当時の直井さんは「ただの自己満足で動いてしまったのではないか」と落ち込んだ。「自分は役に立ってもいないし感謝もされていない。」自室に閉じこもり泣いてばかりの日々が続いた。

ナムプンゲ村の人々の暮らし

ウガンダに来て一年が過ぎた頃、徐々に現地の人々の暮らしがみえてきた。
同僚の先生たちや子どもたちの暮らしは不安が多かった。直井さんの配属先の小学校では乾季になると水不足のため、学校でも敷地内の教員宿舎でも満足できるほど飲み水や生活用水にアクセスすることができていなかった。子どもたちはトイレ後に手を洗うこともできていなかった。また現地の先生たちの経済状況は不安定で、給料がきちんと支払われないことがあったり、遠くに住む家族に会って助けることができないなど、生活に常に心配を抱えていた。子どもたちにとっても厳しい環境は同様で、日常的におなかを空かせていて学校給食もなく、サトウキビをかじり空腹をしのいでいた。
直井さんはハッと「私は相手の環境もよく知らないうちに自分は自分の価値観でいいと思ったこと、大事にしていたことを相手に押し付けていたかもしれない」と気づいた。

ウガンダの人々とともに、そこに住む人々のために

チテンジノートブックプロジェクト

チテンジノートブックプロジェクトで建設した貯水槽

チテンジノートブックプ制作風景

隊員生活残り半年というところで、当時の直井さんは隊員による日本人向けのウガンダ情報誌「UG」の編集長に就任していた。その関係で現地の印刷所や製本所も出入りし、本づくりの現場を見た。
そこでヒントを得た直井さんは、ウガンダの「チテンジ」と呼ばれるカラフルな伝統布と製本する前のノートを仕入れ、ハード面にチテンジを張り付けオリジナルのノートを作り、現地の人の収入向上に役立てることはできないかと考えた。学校での授業を続けながら、放課後の時間を利用して有志を募ってノートの制作をひたすら指導をした。

活動地のナムプンゲ村は首都から1時間と近かったため、隊員生活の前半で息抜きによく訪れていた首都には、現地で出会った友人たちが多くいた。そのネットワークを活かし、首都で外国人観光客が出入りしているカフェやホテルに頼み、ノートを各施設で販売をさせてもらった。すると、あっという間に1500冊完売!
懸命に改良を重ね、更に制作したノートも全て完売した。日本円で約40万円にもなる収益がでた。お金の使い道を考えた末、活動していた学校に「貯水槽」を建設することができた。ウガンダ人が自分たちでメンテナンス可能なセメント製の貯水槽で2万ℓの雨水が貯められる。この貯水槽により水問題の課題改善につながった。

着任当初、活動がうまくいかず、落ち込んでいて聴くことができていなかった「声」もしっかり聴こえた。当初から直井さんのことを信頼し励ましてくれていた現地の先生や子どもたちが一緒に活動の成果を喜んでくれた。これまで奮闘してきた直井さんに寄り添ってくれていた現地の先生の存在に改めて気づき、感謝の気持ちでいっぱいになった。ウガンダに来て一年半はほぼ泣いてばかりの日々だったが、最後にやっと、やりがいを感じることができ、帰国後の仕事へもつながっていった。

協力隊経験は引き出しの一部、初心にもどり就職

帰国後は、食材の輸入販売を行う民間企業に入社した。その企業は多くの開発途上国と関わりがあり、ウガンダからドライフルーツも輸入していた。商品は現地の人々と開発し、その過程にはストーリーがあった。生産者の想いを大切に、自社で責任をもって販売まで行う、という一貫した流れに惹かれた。
入社1年目は正直、「またウガンダに戻りたい、ウガンダの工場に異動したい」という気持ちがあった。しかし会社では、協力隊経験による特別扱いは一切なかった。社長からは「ウガンダでの経験は引き出しの一つ。いつまでも自分の理想を叶えてもらおうとするのは違う」と一喝された。直井さんは心を入れ替えて働くことを決意。接遇全般、商品管理、売り上げに対して・・・全ての業務に妥協は許さなかった。しばらくたったころ、大阪の店舗の店長に抜擢され、スタッフの育成やマネジメントという新たな役割ができた。
どちらかというと苦手な分野だったが、「やるしかない。」と奮起した。

大阪異動後は自宅に帰ってからもスタッフ一人ひとりのスタッフの顔を想い出し、鏡の前で声かけの練習をした。店舗での様々な状況を想定して、「こんな時はスタッフにどんな言葉をかけるべきか?何を問いかけるか?」試行錯誤した。実際の仕事現場でも少しずつスタッフへの声がけができるようになったころ、変化が訪れた。店で働く1人ひとりの表情が生き生きとして、徐々に上がる売り上げは過去最大の売り上げで、なんと全国一位を記録したのだ。

そんな直井さんが定住先に選んだ土地は、「日立市」だった。
移住の準備をしていると、現在共同オーナーを務めるアメリカ人の友人に「カフェをやらないか?」と誘われ、即決した。ウガンダでの経験、帰国後の経験のおかげで、なに一つ怖くはなかった。立ち上げの準備で現在のパートナーとも出会い、結婚、出産を経て、子育てをしながら経営者として人材育成や店舗運営に関わる。最近ようやく納得のいくウガンダ産のコーヒー豆と出会ったとのことで、お店ではウガンダのコーヒーも味わえる。まだまだウガンダとの縁もあるようだ。「これからもお店と共に成長をしていきたい。」と直井さんは語ってくれた。