【隊員たちのイマ】茨城にUターン!日立市でカフェを経営 直井道さん【前編】


直井 道さん (福島県いわき市出身・茨城県日立市在住 元青年海外協力隊/小学校教諭/ウガンダ)

ウガンダの教え子たちと直井さん

小学校教員を経て、青年海外協力隊としてウガンダで小学校教諭として活動。帰国後、貿易商社に勤務したのち、大学母校のそばに、コーヒーショップ「CAMEO COFFEE COMPANY」※1を開店。経営、店舗運営を行っています。
前編では、国際協力に導かれる様々なキッカケ、出会いを経て協力隊応募までを語っていただきました。

母が伝えてくれていた可能性

「英語が話せるようになればこういう仕事もできるんだよ。」
直井さんが幼いころ、一緒にテレビ番組を観ていたお母さんが、海外の貧困地域で支援活動をする日本人の姿をみて直井さんに話してくれたという。
「教員をしていた母は緒方貞子※2さんに憧れを抱いていました。当時、女性という立場で、国連難民高等弁務官という重責の仕事されていた緒方さんをとても尊敬していたんです。今思えば、そんな母に育ててもらった影響が根底にあるかもしれません。」

高校の恩師が教えてくれた世界への興味

高校時代の直井さんは、暇さえあれば世界地図を広げ、食い入るように見ていたという。地理に興味を持ったきっかけは恩師との出会いだ。授業では先生自身の海外旅行の体験談、歴史や地理の話が楽しくて、どんどん引き込まれた。
「先生のおかげで世界への興味が広がった。私もいつか誰かの世界観を変えられるような授業をしてみたい!」
そう思った直井さんは、恩師との出会いを機に教員を志し、教育学部のある茨城キリスト大学教育学部に入学した。

国際交流を通じて広がる異文化理解

大学時代の国際交流

ルームメイトを通して英語を習得しながら、たくさんの出会いがあった

大学入学して間もなく、直井さんは一人のアメリカ人留学生に誘われ英会話サークルを始めた。週に1回集まり、日常生活から宗教、文化など様々なテーマで話をした。
もともと英語が苦手だったという直井さん、最初は会話についていけず四苦八苦だった。
「どうして日本人は神社に行くの?」「お葬式はどうするものなの?」
留学生からは受け答えに戸惑うような質問もあった。これまで日本で暮らしていて疑問すら持っていなかったことだったが、自分なりに考え、懸命に英語で伝えようとがんばった。その甲斐あって、国際交流の輪は広がり、夏休みには留学生の友人の母国アメリカで初めてホームステイを経験。その後もアルバイト代をためて海外旅行を楽しんだ。

大学4年生になるとカナダ人留学生に誘われ日立市でルームシェアを始めた。ルームメイトを介して外国人コミュニティとの交流の場も増え、プライベートは全て英語で生活をしていた。ルームメイトに指摘され、様々なシーンでの伝え方のニュアンスも学んだ。「話したい」「聴きたい」「相手を知りたい」という興味とともに自己表現や意思疎通の幅も広がった。
英語が苦手だった直井さんが、語学教室に一切通わず、他の言語で人間関係を構築するということを、茨城県の日立市で学んだ。

「国際協力」との出会い

大学の学びに加え「国際交流」が日常にあった直井さんの生活の中で、「国際協力」との出会いもあった。ある日、大学で掲示されていた、JICA筑波主催の「大学生・大学院生向け国際協力理解講座」※3のポスターに目を奪われた。海外、教育、フォトジャーナリズムに関心があった直井さんにとって、「国際協力」というキーワードは全ての自分の興味を網羅しているように感じた。

JICA筑波のプログラムに参加してJICAや国際協力について学んだ後、プログラム終盤で案内された、拓殖大学のオープンカレッジ「国際理解教育ファシリテーター養成講座」にも参加を決めた。そこでは、社会人やNGOスタッフ、主婦や学生など様々な立場や年齢の人々とともに「参加型」での学びを経験。参加型での様々な手法を用いて地球規模的な課題問題に対する解決の手立てや話し合いを促進させるスキルを学んだ。「平和」「紛争」などをテーマにしたワークショップの考案なども行いながら、国際協力への想いが募っていった。

導かれるままに、初めてのアフリカへ

大学時代、スタディーツアー難民キャンプにて

拓殖大学のオープンカレッジ参加が機となり国際協力系ゼミのスタディーツアーに誘われ、東アフリカ、ケニアを訪問した。初めてのアフリカ、ケニア・・・見たこと全てが衝撃的だった。
町で物乞いをしている貧しい人々や、紛争の影響でスーダンからケニアへ難民として逃れ食料配給を待つため長い列をなす人々。一方、国立公園やマサイ族の集落では、観光客がカメラを提げて優雅に観光を楽しんでいる光景が。
格差を目の当たりにした直井さんは何一つできることがない自分が情けなくなり、帰国時の飛行機ではずっと泣きっぱなしだった。ツアーコーディネーターとして同行していたフォトジャーナリストの大津史郎※4さんに「道(直井さん)には道なりにやれることがあるんじゃないか。」そう背中を押してもらい、帰国後、大学で初めてケニアの写真展を開催した。留学生を含め一人でも多くの人にみてもらえるよう、和・英両方の説明を添えて自分なりに精一杯、「形」にしてみた。そして、ケニアでの出会いを思い出し、「いつか誰かの役に立ちたい。」と強く思った。

教員経験を活かして青年海外協力隊へ

教員時代

大学卒業後は日立市内の公立小学校に就職し、初年度は4年生の担任になった。
教員時代は寝食を忘れるほど多忙を極めていた。学校行事や生徒指導、授業やクラスの事、やってもやっても終わりが見えず、常に仕事に追われている状況。
唯一、子どもたちとの時間が支えとなり必死に頑張った。
教員3年目になると、大学卒業後も継続していた英語での日常生活や国際交流の経験を活かした教育に関われないかという想いが募った。それを聞いた友人が青年海外協力隊応募をすすめてくれた。「これだ!」多くの途上国からの教育分野の要請で必要とされる「実務経験3年」という条件も満たせそうだった。直井さんは応募を決意した。

2010年度JICA海外協力隊春募集、直井さんはゴールデンウィークの休みを利用し必要書類を無我夢中で準備し応募した。
勤務先からも理解を得ることができ、一次選考、二次選考共に「合格」し、小学校教諭としてウガンダ共和国に派遣されることが決まった。2010年3月、3年間務めた勤務先の小学校の離任式で直井さんは子どもたちに「アフリカに行ってきます!」と伝え、小学校を退職した。→後半「青年海外協力隊としてウガンダへ」に続く(後日公開)